葦の髄から天井を覗く物理学者

   2015/04/30

相撲は暴力か?
葦の髄から天井を覗く。「よしのずいからてんじょうをのぞく」と読む。髄というのは、葦の茎の管の中のことをいう。つまり、細い葦の茎の管を通して見える天井をもって、全体を見たと思い込むということだ。狭い見識で判断してしまうことを戒めているわけだ。今回はそのことについて書いてみたい。

四つ葉、お守り、もの忘れー といっても落語の三題噺ではない。本誌創刊号に『リングの陰に咲く花』という記事がある。日本人として初めてボクシング・フライ級世界チャンピオンに輝いた白井義男選手の秘められた愛をスクープしたものだそのエピソードの中に、この「四つ葉、お守り、もの
忘れ」が出てくるのである。……

これは、筆者が『SPA!』の前身にあたる『週刊サンケイ』の最終号(1988年6月8日号)に書いた、特集記事の書き出しである。

タイトルは、「トップ記事で読む われらが昭和を生きた人間群像」。

ヒューマン・インタレストの週刊誌ジャーナリズムは、草柳(大蔵)が開祖し、僭越ながら不肖草野(直樹)のペンで昭和と共に幕を閉じたわけだ。

1952年5月19日、後楽園球場特設リングで宿敵ダド・マリノを破り、日本で初めてのボクシング世界チャンピオンになった白井義男が亡くなったのは、2003年12月26日だった。そう、今日は白井の命日である。

力道山や白井義男は、戦争で疲弊した日本国民に夢と希望を与えてくれたとよくいわれる。

筆者は、力道山については世代的に間に合わなかったが、白井義男や、先日亡くなった野球の”鉄腕”稲尾和久については、冒頭の週刊誌に彼らの生き様を自分のペンで直接書く機会に恵まれた。

バンテージに四つ葉のクローバーをはさんでいたことや、カーン博士との師弟愛などは当時の人なら知っていることだが、夫婦愛が引退の直接の理由であることはあまり知られていない。

筆者は寺内大吉氏からこっそりそれを聞き出し、誌面で初めて明かした。

一言で述べると、白井義男も稲尾和久も、ボクシングや野球に人生を賭けていた。白井義男は引退後は他の仕事に就かず、稲尾和久は病に倒れるまでユニフォーム(マスターズリーグ)を着続けていた。その競技に殉じたすばらしい人生だったと思う。

だが、そうした生き様を見ようとする意義がわからない人間を発見して鼻白んでしまった。物理学者の大槻義彦氏である。

筆者は以前、「最近は疑似科学批判者のサイトを見ない」と書いた。

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が、忙殺されている日々の逃避行為として、先日「大槻義彦のページ」なるブログをついうっかり見てしまった。

で、やっぱり見ない方がよかったと後悔したが、見てしまったものはしかたない。いくつか文句を書きたいことはあるが、まずは10月1日の「相撲は見ない」について。

一言でマジレスすれば、プロスポーツの、ショービジネスとしての成り立ちや個々の演者のキャラ、不祥事などと、その競技の価値というのは別の話であるにもかかわらず、大槻義彦氏はそれを混同する愚をおかしている。味噌も糞も一緒くた。坊主憎けりゃ、袈裟まで憎いというやつだ。

「暴力は嫌いなだけでなく、憎しみを持っている」はともかくとして、スポーツ=暴力、球技の野球もダメだが、自分がやっているゴルフは例外(苦笑)という、相も変わらぬ自分の感覚的認識だけが全ての、「きっこの日記」も裸足で逃げ出す”論理なき「科学」主義の暴君”ぶりをいかんなく発揮している。

読んでいて、さすがに「あんまりだ」と思った。

「科学はいかに正しいかだけでなく、いかなる価値で使われるかが大事だ」とは安斎育郎氏が常々言っていることだが、人間の運動表現も同様だ。

スポーツとして表現するのか、喧嘩など人を服従させる、まさに暴力として使うのか、両者の価値には決定的な違いがある。

ところが、大槻義彦氏によれば、すべての運動表現は使い方にかかわらず「暴力」でしかないらしい。

大槻義彦氏よ。あなたの理屈に沿うなら、原子力も否定しなければ辻褄が合わないだろう。

過去に何度も不祥事(事故)を起こしている原発は「平和利用」という「価値」のもとに認めるのに、スポーツについては一部の不祥事をあげつらって暴力扱いというのは理屈としておかしいではないか。

大槻義彦氏は、「科学的(客観的)認識」と「価値意識」の連関をきちんと見ることができない。

物質と精神を切り離して考える旧弊な意味での「デカルト以来の近代合理主義」者である。

大槻義彦氏、東日本大震災コメントの問題点

それが、オノレのいじめられ体験も加わって、「文科系が国を滅ぼす」などという21世紀の科学観とは縁もゆかりもない暴言につながっていったのだろうと筆者は見ている。

たしかに、一部に言われる「プロスポーツは異形の者・かぶき者の世界」という”身も蓋もない”意見もわからないでもない。

筆者も学生時代に、暴力的な上下関係が嫌で、入りたかった運動部の入部を見合わせた経験もある。

自称国技の「八百長問題」「朝青龍問題」「弟子なぶり殺し事件」などについても、訴訟覚悟で某誌に批判記事も書いた。

が、プロスポーツであれ何であれ、世の中にはさまざまな人がさまざまな価値観の中でさまざまな立場を選択している現実があり、その価値観じたいは尊重すべきという原則を無視する気はない。

たとえば、相撲で横綱になりたいと頑張る青年がいれば筆者は認めるし、そんなこだわりをもつ世界を前向きに知ってみたいという意欲もある。

少なくとも、「言語道断」などと紋切り型の判断で見ること自体をやめるようなことはしない。

そんなことをしたら、一人の生きた人間のリアルな価値意識に基づいた生き様や、そこでおりなす人間模様や、そこから見える社会の真実の一端を見る機会を失うからだ。

大槻義彦氏は、(プロ)スポーツで元気づけられ、生きる意欲を与えられたとする人々のことをどう見るのだろう。

「暴力」で覚醒させられる人生など野蛮だ、右翼的だ、見るに値しないというつもりだろうか。

そういう人間は、一生ゾウゲノトウにこもり、自分の専門分野の論文だけをシコシコ書いて自己満足していればよろしい。

したり顔で社会現象についての論評などおこがましい。その分野で頑張っている人たちに対して失礼ではないか。

筆者は週刊誌記者時代、大槻義彦氏が力道山を例に出して「最悪」と唾棄するプロレスにかかわる著述家の村松友み氏や山田隆氏らと出会った。

彼らがなぜプロレスにこだわるのか、レスラーの試合や生き様を通して、数行で報じられる新聞記事から人間的な広がりを持たせる読み物作りの醍醐味があると教わった。

「こんなヒューマンな競技は他にはない」(2007年12月13日付「東京スポーツ」で富家孝)というのはまさにその通りで、彼らを書くことは、冒頭に述べたように、近代文学で言えば二葉亭四迷や田岡嶺雲らが先駆者となり、雑誌ジャーナリズムの開祖といわれる草柳大蔵や梶山季之らが発展させたヒューマンインタレストの世界があった。

15年ほど前にはビリヤード誌の記者を経験した。

無目的な人生だったフリーターや引きこもりの少年・少女が、「球の魅力」という初めて真剣に取り組める生き甲斐を見つけて、一流のアマやプロに成長していく、まるで「スクールウォーズ」のような過程を何人も見たし、そうなるように彼らを記事でも応援してきた。

大槻義彦氏に限らず、世間の「良識」ある人々は言うだろう。プロレスは八百長でビリヤードはカケダマありのうさんくさい世界だと。

うさんくさくたって競技自体が非合法ではないのだから、彼らの自己実現を温かく見守ったっていいじゃないか。

大槻義彦氏が熱中しているゴルフだってニギることはあるだろう。そんなこと言ったら、人間のすることにうさんくさくない世界なんてあるのか。だいたい、物理学者はそれほど清廉潔白なのか。んなこたぁねえだろう。笑わせるな。

人は何故、疑似科学に騙されるのか。信じたいものを信じるからだ。つまり、価値意識で判断するということだ。

最近話題の「神世界」騒動だって、取り込まれた神奈川県警の警視が人並み以上に神秘主義・非合理主義に傾倒していたわけではないだろう。

要するに、杉本社長が「イイ女」(「日刊ゲンダイ」12月26日付)だったから入れあげたのだろう。

樋口恵子さんや田嶋陽子さんがいくらゴチャゴチャ言っても、男性一般にそのような価値観はある。

そんなメロメロの警視の前に大槻義彦氏があらわれて、「科学的根拠…」云々と科学知識を突きつけたところで何の解決にもならなかっただろう。

なぜ、人はそれを信じたいのか。その解を獲得するためには、もっといろいろな角度から人間というものを知ろうとすることが大切である。

超常・疑似科学とのたたかいは、いかに人間を知るかにかかっている。心理学だけではなく、社会科学とも文学とも医療ともジャーナリズムとも宗教とも手を携えて、そこに接近しなければならない。

大槻義彦氏にはその視点が欠けている、というよりその立場と両立できないのである。

物事が科学知識だけで済めば簡単だ。だったら、なんで理系の高学歴の者がオカルトに引っかかるのか。「科学的認識」の側からのアプローチだけでは解決しないことをいい加減気付け。

その何倍もやっかいな「価値意識」の側からの接近を、学術的だけでなく、日常的思考すらも視野に入れた取り組みを行うことが求められるのではないか。

のびしろのない古典的な物理学者の大槻義彦老人にその先頭にたてとは言わない。しかし、今後もメディアで発言するのなら、うわべの理屈だけでもいいから、そうした啓蒙を行って欲しいと思う。

それにしても、大槻義彦氏がスポーツを通したヒューマンインタレストの立場に立てないのは、幼少のときに出会った乱暴な連中に負けたということではないのか。

その連中の暴力的な生き方という「闇」を探り、その回答を社会に表明することも、暴力に対する憎しみを晴らす一つのあり方だと思うが、他分野の(ひとりよがりともいえる)「権威」から「文科系」を見下すことでしかものを語れなくなった現在の卑屈な学問的ヘゲモニーは、人を知ることを放棄した敗北主義にしか見えない。

大槻義彦氏の疑問点は下記の書に詳しい。

健康情報・本当の話

健康情報・本当の話

  • 作者: 草野 直樹
  • 出版社/メーカー: 楽工社
  • 発売日: 2008/05
  • メディア: 単行本

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