左巻健男『水はなんにも知らないよ』求められる文理協働の解決

   2015/01/27

水はモノなんか言わねえよ
左巻健男さんの『水はなんにも知らないよ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を拝読しました。今度出す書籍で倖田來未さんの舌禍事件について書くためです(あれをただの「舌禍事件、騒ぎすぎ」で片づける人は、懐疑センスがないね)。同書は、いわゆる「水伝」や「健康によいとされる水」について、「科学の問題」としてはよくまとまっていて、筆者ごときの理解を助けてくれます。

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同時に、ちょっと気になったのもその点です。

水に言葉がわかるなんて「ニセ科学」だ。そりゃそうでしょう。(逃げ口上ですが)発表者自身が「ファンタジー」と言っているわけですから。

しかし、これを教材に使う問題の本質はそこでしょうか。

言葉は、字面や音だけではわからない話者の思いによってときには正反対の使われ方をします。

「バカヤロウ」と言われて嬉しくて涙が出る、なんてやりとりはドラマにありがちな場面ですが、どんな高価な辞書で調べても、「バカヤロウ」に嬉し涙がでるような感動的な意味は書かれていません。

なぜか。

会話というのは、経験と個々の信頼関係や思いやりや洞察力によって成立する、すなわち「いかなる価値観で使われるか」が重要な意味を持つものだからです。

私たちの日常は、ときには誤解につながる「リスク」も承知の上で、辞書的解釈とは異なる言葉の使用にみちています。

そうした人間関係の豊かさの上でなりたつ言葉の不思議な魅力と奥深さを、辞書的解釈を紋切り型に押しつけてぶち壊す役割が「水伝」にはあります。

ですから、これは「ニセ科学」だから問題なのではなく、そもそも科学教育以前に国語教育や道徳教育として問題であり、フィクションだのファンタジーだのといったエクスキューズは関係なく教材として不適なのです。

では、なぜ、文部科学省がこういう教材を使うのか。筆者は、この件だけでは、大槻義彦教授がいうように、「国が科学音痴の国民を作りたがっている」とまでは考えにくい。

それよりも、言語能力や文脈を読み取る読解力、客観的事象と価値意識の兼ね合いを判断できるような哲学的思考を育ませたくないのだな、というふうに思いました。

少なくとも、科学教育「だけ」の問題ではない、と思います。

ならば、この件は決して「科学リテラシー」の啓蒙に留めるべきことではなく、おおもとの問題として、教育行政そのものを問うべきなのだろうと思います。

少し飛躍した例かもしれませんが、筆者には若い頃のある経験が甦りました。

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29年前、埼玉の在日朝鮮人3世の中学生が「いじめ」を苦に自殺しました。

「いじめ」は教育問題ですが、これを民族問題としても視野に入れた取り上げ方をした在日韓国人の有名なルポライターがいました。

当時、若さゆえの単純で直情的な正義感から、筆者はそのルポライターに、教育問題を民族問題に”矮小化”していいのか、とクレームをつけました。

それに対するルポライターの答えは、教育問題ということはわかっているが、その中に民族的な差別はなかったのかという疑問をもって取材をしたのだ、ということでした。

ルポライターとして、独自の視点を持った取材活動から本を書くことはまったくもって正当な話であり、筆者の方がいささかつっけんどんで教条的だったと今は恥じています。

ただ、そのルポライターの意図や自覚がどうあれ、民族問題としての視点が政治利用されたのも事実なのです。

韓国では少年の「チョーセンジンいじめ」による自殺をドラマ化し、葬式も開催。

少年とは面識がないはずの少女に弔辞を読ませる光景をテレビ中継しました。日本でも、「11PM」(日本テレビ)が、「アジアと共に生きる・韓国朝鮮と日本」の最終回で取り上げています。

当時、日韓政府間には借款問題があり、韓国政府が国民に反日感情を抱かせる必要があったのです。

本来なら、「日本人は……」「在日は……」ということではなく、社会と教育のひずみとして、両者が「共通の敵に対する共同の戦い」として手を携えて取り組むべき「いじめ」の問題に、「民族問題」が強調されることは、正直なところ、両者の連帯という点で微妙な影響を与えたと今も思います。

話を戻します。

昨春、小学6年生と中学3年生の全員を対象に実施された「全国学力テスト」について、文部科学省が、成績の良かった学校は国語の授業に熱心に取り組んでいる傾向があると分析しました。

要するに、国語教育あっての科学教育ということを文科省も認めているのです。

こんなことは一般の認識としては当然の話なのですが、一部の狭量な物理学者がヘゲモニーを握る疑似科学批判陣営では、その原則がきちんと確認されているのかどうか怪しい。

疑似科学批判との関係で教育問題を語る物理学者たちの意見は、もっぱら、ゆとり教育が理科教育を不十分にした(つまり理科教育さえ行えば疑似科学問題は解決する?)としか聞こえてきません。

11年前、ジャパンスケプティクスのシンポジウムで、教育学者の汐見稔幸さんがその単純な考えを批判的に取り上げたのですが、あっさりスルーされた事実もあります。

「水伝」を問題視している方々は、科学教育「だけ」の問題でなく、きちんと文理協働による「共同の戦い」として取り組んでいるのでしょうか。率直に言って同書にはそのへんの受け止め方や具体的な取り組みは書かれていません。いかが相成っているのか気になります。

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