長門裕之はゼニ目的というが、疑似科学批判はそうではないのか?

   2015/04/25

長門裕之

長門裕之が、南田洋子の認知症と、自分の介護姿をテレビ番組で公開したことに対して、「芸能界の一部から非難の声が上がっている」(「東京スポーツ」2009年4月30日付)という記事がある。

たしかに、今週号の『週刊大衆』では、里見浩太朗の舞台をそのことが原因で長門が降板したという見出しの記事が出ている。

記事の後半では関係者のコメントでそれを否定しているが、舞台の降板と、里見と長門がその件で話し合いを持ったことは事実というから、見出しとしては間違っていない。

また、Web掲示板などを見ても、たしかにそういった意見はある。

しかし、筆者は少し違う考えを持っている。

まず、南田洋子のことを「あんな変わり果てた姿をテレビで…」という言い方について。

それがたとえ善意のものであったとしても、認知症の人にとってどれほど失礼な物言いか考えたことがあるだろうか。

南田洋子を含めて、認知症の人々はグロ画像ではないのだ。

テレビで映して悪いという言い方はないだろう。

そのような意見が出るのは、そもそも認知症を汚い病気として世間がとらえているからだ。

たしかに、女優としての南田洋子を見た者は、現在の姿を見ればショックをうけるかもしれない。

筆者も4年前、『いい旅夢気分』での南田洋子を見ていたから、そのときも「ああ、年取ったな」とは思ったが、現在との違いには戸惑いをもったことは確かだ。

しかし、それは人間の「老い」と認知症の現実なのである。

むしろ、そのような自分が戸惑うほどの現実を知ったことで、いわば「将来の自分にとっての予行練習」になったと思っている。

そうは思わないか?

長門裕之がゼニ目的だからけしからん、という批判をする人もいる。

日本人は、カネのために動くことを汚いとする価値観があるから、批判としてはありがちなことだ。

しかし、この件に限らず、筆者はそういう意見に対しては徹底的に反論したくなる。

この世の行為に、「ゼニ目的」でないことがどれだけあるのか?

そして、ゼニ目的の何が悪いのか?

大槻義彦氏は、江原啓之氏のことを「カネ目的」と言った。

しかし、では自分が疑似科学批判でたくさんのギャラと、それによる知名度アップの付加価値でさらなる利益を得たことはどう説明するのだろう。

「カネ」の批判をするのなら、大槻義彦氏は疑似科学批判をノーギャラでやるべきではなかったのか。

または、大学教授としての給料以外は、カルトの被害者に全額寄付すべきだった。

どのような金儲けかという解釈は、各人の哲学や価値観の問題であり、こと「金儲け」という点で客観的に見れば、江原啓之氏らが金儲けであるように、大槻義彦氏だってまた金を儲けたのではないのか。

たとえば、オカルトタレントとCMで共演することに、「金儲け」以外の何の意味があるのだ。

少なくとも、疑似科学批判という見地からは何の意味もないだろう。

話は横道にそれたが、長門裕之の話に戻る。

介護というのは、カネがかかるものだ。

長門裕之がその金の出所として、南田洋子を「さらし者」にしたとして、誰が責められよう。

責める奴は、責める分だけ金を出せよ。

芸能人仲間が、過去は南田洋子に対してイイ夫ではなかったのに、今さら介護する立派な夫を演出することが気にくわないとする指摘もある。

これも、よくありがちな話だ。

人間というのは、嫉妬のかたまりだから、そういう了見で「批判」できるのだろう。

いい夫であろうがなかろうが、ずっと連れ添ってきたのは事実だし、そもそもそれは、現在介護をしているという事実を消せる訳ではないだろう。

南田洋子は昔、ある番組で、「長門を信用しておりません」などと爆弾発言したことがある。
(長門裕之が暴露本を出す前のこと)

長門裕之のヤンチャぶりに腹を立て、つい公共の電波でホンネの一端を明かしたのかもしれない。

が、とにかく今、一人では何もできなくなった自分を介護してくれているのだから、南田洋子だって今さら長門裕之を信用するもしないもないだろう。

不満があったって、離婚しなかったのだから、たとえ南田洋子にとって不本意な生活だったとしても責任は南田洋子にもある。

いずれにしても、第三者がエラソーに夫婦や夫としてのあり方を論評するようなものではない。

そうかと思うと、
どうせ、カメラが回っているときだけの介護で、普段はヘルパーに丸投げなのだろう、と決めつける意見もある。

南田洋子の反応見てたら、少なくとも丸投げでないことぐらいわかるだろう。

わからないのは、その人が、認知症を含めて、年老いた病人の介護や看病をしたことのない苦労知らずだからだろう。

長門裕之は、今も俳優業の看板を下ろした訳ではないから仕事で家を留守にすることはある。

だから、全ての時間を介護にあてているわけではないだろう。

しかし、重篤な病人が1人いるというだけで、その家族は心配であり、悲しみがあり、とにかく心が安まらないのだ。

70歳を過ぎ、子供もいない長門裕之には、心身共に辛い生活だろう。

介護の現実を社会に訴えることで、長門裕之自身の精神の正常さ保ってるところもあるのではないだろうか。

誰だって苦しい時には弱音ぐらい吐き出したい。

そのくらい、いいではないか。

高須基仁氏が指摘しているとおり、鳥越俊太郎氏は4期の転移がんを売り物にした「芸人生活」を満喫している。

長門裕之の介護話は批判の対象で、鳥越俊太郎氏の闘病記だけが「勇気づけられる」という感性はおかしい。

南田洋子の人権云々という意見もあるが、女優として生きるというのはそういうこと(私生活も覗かれる)ではないだろうか。

そんなこというなら、もし鳥越俊太郎氏が亡くなったらどうするのだろう。

転移が比較的優しいといわれて、そこに一縷の望みを持つ、転移した大腸がん患者たちは「やっぱり」と、いっせいに落胆するだろう。

それで死期を早めるかもしれない。

全国のがん患者たちを絶望のソコに叩き落とすことになるかもしれないのに、いったい鳥越俊太郎氏はどう責任をとるんだろう。

こんなに罪深い話はないではないか。

鳥越俊太郎氏は、自分の病状や闘病を明らかにすることが、同じ病気の人、これからそうなる人に対して、重大な先例になるということをわかっているのだろうか。

もし私が鳥越俊太郎氏と同じ病気とステージだったら、今の時点では黙して闘病に専念する。

そして、関原健夫氏のように、6回転移しても完治が明らかになった時点で、そのときこそ胸を張って「あなたも助かる可能性はある」と声高らかに叫ぶだろう。

関原健夫氏については……

直腸がんの肝転移で手術する鳥越俊太郎氏に読んで欲しい本

「結局は死んでしまう闘病記」に意義がないわけではないが、少なくともその病気になって闘っている人は、死ぬためにたたかっているわけではない。

どうせなら、治った人から励まされたいと思うだろう。

長門裕之にしろ鳥越俊太郎氏にしろ、どちらも、カネのため……かもしれない。

少なくとも、金にはなる。

ただ、その一方で社会的公益性もある。

それだけだろう。同じことではないだろうか。

なお、この続編は以下の記事である

「真面目な人」ほど騙される

待ってくれ、洋子

待ってくれ、洋子

  • 作者: 長門 裕之
  • 出版社/メーカー: 主婦と生活社
  • 発売日: 2009/04
  • メディア: 単行本

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