疑似科学批判者は自己顕示、自己陶酔の欲求が強い!?

   2015/04/30

疑似科学批判者

疑似科学批判者は自己顕示、自己陶酔の欲求が強い!?という話である。内容を正確に書かないとクレームが付くのでその学者の実名は書かないが、Mという心理学者によると、「不思議現象(つまりオカルト・疑似科学問題)」に熱中する人というのはいわゆる肯定派、否定派を問わず、「自分は特別なことを知っている」という自己顕示、自己陶酔の欲求が強いそうだ。

疑似科学に関するいろいろな研究を今までたくさん見聞きしたが、これこそが、もっとも核心をついた名研究だと筆者は思っている

要するに、だ。

オカルト・疑似科学批判に関わる連中というのは、いわゆる肯定派、否定派を問わず、エラソーに知識自慢したいことが真の目的であり、べつに世の中の非合理現象に立ち向かい、社会のお役に立つということなど二の次という訳だ。

そういえば、癌掲示板というところで、健康食品について肯定的な書き込みがあると、速攻で否定的な書き込みがつくパターンについて、「肯定派・否定派いろいろ意見は会っても、みなさん、健康食品がお好きだということだけはよくわかりました」という「中立」の書き込みが入ったのを見たことがある。思わず笑ってしまった。

オカルト・疑似科学批判に首を突っ込んでいる方々、いや、自分に限ってそんなことはない、といいきれますか?

えっ、動機や打算なんてどうでもいいだろうって?

それが、そうではないんだな。

安斎育郎氏によると、カルト・疑似科学に騙されるのは「欲得」や「思いこみ」だという

「不思議現象(つまりオカルト・疑似科学問題)」に熱中する人たちの、いわゆる肯定派、否定派を問わず、「自分は特別なことを知っている」という自己顕示、自己陶酔の欲求は、「自分は物を知っている特別な人間と思われたい」という「欲得」そのものだろう。

違うかな?

つまり、いわゆる否定派も、実はその態度や目的いかんでは、トンデモさんなのだということだ。

現在、疑似科学問題で発言しているセンセー方に対する批判は、出たがりの大槻義彦氏に対するもの以外、あまりおもてに出てきたことがない

それは、否定派は同じ否定派の足を引っ張ってはならないなどという間違った考えがあることと、もうひとつは、「いわゆる否定派」がひとつのカルトになっているからだと思う。

否定派を気取るみなさんにとって、センセー方は自分がエラソーに出来るネタを提供して下さるありがたい方々であり、かつ、自分たちにとって憧れの対象でもあるのだろう。

「ああ、自分も天羽優子先生や菊池誠先生のようにいろいろ発言したらカッコイイだろうなあ」という憧れの対象なんだろうな。

だから絶対に批判してはならない存在なわけだ。

以前、「2ちゃんねる」の天羽優子スレで素朴な疑問を書いたら、袋だたきにあったことがある。

別に中傷でも何でもない。

「毎日、ブログを書く時間がよくありますね」と書いただけだ。

そしたら、そんなに羨ましいのか、とか、お前も悔しかったら天羽優子先生のようになれ、というようなコメントがズラーッといくつもついた。

初めから喧嘩腰だ。

それも続々書き込まれて薄気味悪くなった。

筆者は、別に羨ましいとか悔しいとかいった感情で書いたわけではない。

当時、ジャパンスケプティクスの偉いセンセー方は、会員からいくら催促されても、公式サイトすらズーッと作ろうとしなかった。

その理由は「更新が大変だから」というものだった。

だが更新といったって、年に1度の総会と、3~4回発行される機関誌ぐらいしか活動がないのだから、ぞうさもないことだろう。

にもかかわらず、何人も役員が雁首揃えながらできなかった。

その一方で、毎日ブログを更新する天羽優子先生は、ジャパンスケプティクスの口先だけ偉いセンセー方とはあまりにも違うから、いったいそれはどういうことだろう、ということを知りたかっただけなのだ。

なのに、その喧嘩腰である。

信者にとっては、とにかく絶賛以外の書き込みは絶対に許さない、ということらしい。

これはカルト以外の何ものでもないだろう。

天羽優子さん信者がうるさいので真相をぶちまけます

もっとも、上記の書き込みが天羽優子先生のジサクジエンならまた話は違ってくるのだが(笑)

夕刊紙だからといって頭から否定できるのか

菊池誠先生といえば、先日、彼の過去のブログをパラパラと拝見したが、「日刊ゲンダイ」という新聞をソースにした記事のところで、日刊ゲンダイだからという理由でソース自体に懐疑的なくだりがあった。

これはおかしいと思う。

たしかに夕刊紙は、娯楽的な要素も入れなければならないから一般朝刊紙と違い、風俗や芸能の記事が並ぶ。
しかも、政治や経済の切り口も独自だ。

代表的なのが「東京スポーツ」だ。

思わず吹き出してしまう、思わせぶりな見出し。

しかし、それは「見せ方」の問題であり、記事に書かれている内容自体がデタラメだと頭から決めつけられるわけではない。

同じ記事が「朝日」に書かれればいいのだろうか。

そうではないだろう。

何処の媒体だろうが同じだ。

夕刊紙に書かれているというだけでコバカにするのは権威主義のあらわれである。

そう、知識自慢が目的の人たちにはおうおうにして「権威主義」をまとっている。

しかし、権威主義による先入観は安斎育郎氏の言う「思いこみ」そのものである。

夕刊紙だというだけで頭から疑うのは何でも「あそこの家はお父さんがいないから」と片親の子を疑い見下すのと同じことだ。

ま、また袋だたきになってもアレだからこのへんでやめておくか。

とにかく「信者」にいいたいのは、オカルト・疑似科学批判を旗印にしながら実は「カルトを批判するカルト」になっていないかどうか、批判陣営はオノレに問い直してみて欲しいということだ。

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