間違いの「重さ」や「意味」

   2015/04/28

間違いの「重さ」や「意味」

間違いの「重さ」や「意味」について書いてみよう。ひとつひとつの意見にいちいち答えていると新しいテーマで記事が書けなくなるのだが、以前書いた記事、「医師や科学者の「トンデモ」は「良いトンデモ」と思いこむ「カルト否定派」の論理」がご不満の方がおられるようなので、これについても触れておきたい。

その御仁は、科学者を、健康食品業者と同じように「トンデモ」呼ばわりすることが許せないらしい。

だが、科学者を聖域に置かないとダメだという発想自体、カルト以外の何ものでもないだろう。

誰のどんな間違いだろうと、間違いは間違いだ。

「科学的」には、間違いに軽重も善し悪しもない。

科学者が悪意はなく間違いを言おうが、健康食品の業者が意図的にデタラメを言おうが、「間違い」という点では同じである。

間違いの「重さ」や「意味」や「背景」を問うのは、「科学」ではなく「価値」の問題である。

たとえば、御仁とは正反対に、“しょせん”健康食品業者と、“偉い”科学者の間違いとでは世間から信頼されている分だけ、本人の意図や自覚にかかわらず、科学者の間違いの方がずっと深刻だ・罪深いという見方だってできる。

要は、いかなる立場で何を主張したいかによって

「重さ」や「意味」は変わる
「価値」というのはそういうものだ。

ついでに、くどく持論を書いておくと、疑似科学問題は、何度も言うように、前提は科学知識ではない。

科学知識がないから疑似科学に騙されるのではない。

逆だ。なまじっか、あるから、もしくは、自分はあると思っているから、つんのめって疑似科学野郎に転落するのだ

たとえば、まともな判断力もないのに中途半端に科学知識を身につけるから、サリンなど作ってしまうのだ。

と書くと、カルトはまた、「お前は正しい科学知識を否定するのか。

無知が良いというのか」と揚げ足を取るのだろう。

そういうことではない。

「知識」と「価値意識」は人間理性の両輪だ。

まず、そのこと自体(理性は知識だけで成り立っているのではないということ)を認識させることが大切なのだ。
その上で「知識」を獲得すべきなのだ。

そして、「知識」というのは科学知識だけではない。

「その人の中に文系的要素と理系的要素が必要」なのだ。

しかし、疑似科学批判者がすべてその立場で足並みを揃えているかというと、残念ながらそうではない。

たとえば、大槻義彦氏の近年の「活躍」は、筆者の述べていることとは両立しないものであると思っている。

大槻義彦氏のブログには、その都度、登場する人物に「文系」か「理系」かが書かれているのだが、それが何の意味があるのだろう。

実際にどれぐらい効果があるかは別として、大槻義彦氏が近年の著書やその他媒体で行っているそうした主張が、理系に人材を運ぶための広告塔だというのなら、別に邪魔するつもりはない。

ただ、その姿勢はスケプティクスとは相容れないものであると思う。

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