「運が悪い」という言い方は本当に「ニセ科学」なのか?

   2015/04/30

運が悪い

「運が悪い」という言い方について書いてみたい。筆者が以前、Web掲示板を運営していたとき、「運が悪い」という表現を巡って一悶着あった。ある人が、自分の身の上を書いて「運が悪い」と表現すると、別の人が競馬や宝くじなどの「確率」を根拠に、そのような感じ方はニセ科学だと説教したのだ。

それに対して筆者は、「運が悪い」というのは価値観的な表現であり、それ自体が即疑似科学になるわけではない。そして、なぜそのような価値判断になったかという入り方ならともかく、いきなり無関係な統計の話を突きつけるやり方ではその人は得心しない、と指摘した。

すると、そいつは「文系と理系の考え方の違い」という捨てぜりふを残して消えた。

便利だよね。批判されると、すべて「文系と理系の違い」で済ませるのって(笑)

そして、その「違い」は永遠に埋める気がない。

それでは、科学とは真逆な不可知論だろう。

学問によって接近方法が違うことはあっても、合理的かどうかの判定に文系も理系もない。

あったら大変だ。

もっとも、そのセリフはジャパンスケプティクスの某物理学者も言っていたことがあるから、向上心のない物理学者が、より広い視点からの批判を受けたくない場合に使う逃げ口上なのだろうと筆者は解釈している。

そもそも筆者の述べたことは、文系理系など持ち出すような高尚な話ではない。

そんなものに関係なくあったり前のことだ。

物事には、原因があって結果がある。簡単に言えば、「運」がいいか悪いかというのは、結果に対する自分の都合の善し悪しを述べているだけだから、原因への合理的な接近を試みた言い方ではない。

ただし、だからその現象の見方自体が合理的ではないというわけではない。

わかりやすい例を示そう。

たとえば、子供、とくに男の子ができると運気が落ちるといわれる。

子供を育てたことがある人はわかると思うが、育児というのは大変手がかかる。

一般に男の子の方が大変だといわれる。

産まれてすぐは3時間ごとにミルクをやり、寝返りできない頃は、タオルやシーツや寝間着なとがかかって窒息しないかと気を配り、つかまり立ちするようになれば、ひっくり返って頭を打たないかと心配する。

突然熱を出すこともある。ひきつけだって起こすかもしれない。

こういうご時世だから、電磁波や食品添加物やいじめなどに気を配ることも無意味なことではない。

でも、そんな日々を繰り返していたら心身共にクッタクタだ。

育児疲れで、日常的に睡眠不足やストレスが蓄積し、忙殺されて夫婦の会話も少なくなり、新聞やテレビも落ち着いてみられず、インターネットも十分にできず、社会から切れたところで生活しているようにな不安な気持ちに陥る。

そんな中で、集中力や判断力が十分でなかったり病気になったりすることはあるだろう。

それ自体が不幸な現象であり、また、そのよくない日常から、より広いスパンで見て人生の選択を誤ることもあり得る。

育児疲れで子供を殺してしまうのは、その最悪のパターンだ。

だから、「運気が落ちる」にあたることは、合理的に説明できる可能性がある。

ただ、人間は自分の思考や経験をいちいち合理的に整理して、科学的なお墨付きのある手法で処理し裏付ける習慣も必要性もないから、結果としての経験の善し悪しを「運」という言い方で済ませている。それだけのことである。

端的にまとめると、「運」というのは、科学的真実の示唆を含む日常的思考のひとつと捉えるのが妥当であると筆者は考える。

さすれば、「運」とは非科学ではあるが、だからといって頭から疑似科学だのニセ科学だのという前提で説教する主張には賛成しない。

むしろ、そうした主張を繰り返す還元主義のカルト理系君には、わからせてやるためにきちんと議論する必要があると思っている。

それはともかく、なぜそのような話を書いたかというと、ジャパンスケプティクス運営委員の松尾貴史先生が「日刊ゲンダイ」の連載で「運」の話に触れているので、この際だから、冒頭の捨てぜりふである「文系と理系の違い」なのか、たんにそいつが「世の中のことは数字だけで全てが説明でき、数字だけで得心しなければならない」と思いこんでいる世間知らずだったのかを、改めてはっきりさせたいと思ったからだ。

連載で松尾貴史先生はこう書いている。
「私は『運』そのものを信じていません」

松尾貴史先生はわかっておられるのに、言葉足らずだったのではないかと思われるが、この記述の限りでは、松尾貴史先生の「運」の概念は、冒頭の世間知らずと同じということになる。

すでに述べたように、筆者はその立場を取らない。

たとえば、放射線治療の効用を啓蒙している東大病院の中川恵一医師は、「がんになるかならないかは運の要素が大きい」と述べている。

ここで中川恵一医師が「運」と表現したのは、今の医学は、こういう生活をしていたらがんになる(ならない)ということをはっきりと言い当てるだけの水準にきていないので、残念ながら医学的にはわからないこと、つまり「原因への合理的な接近を試みた言い方ではない」ものとして「運」という言葉を便宜上使っているのだ。

世の中はまだ、科学的にも日常的にも、「運」という言葉を使うしか説明のつかないことにみちている。

つまり、「運」は疑似科学どころか、科学が追いついていないものも含まれているのだ。

だから、「運」は非科学であっても疑似科学ではない、と筆者は述べた。

偉い物理学者の話しかストンと胸に落とさないカルト否定派のみなさん、わかるかな?

また、松尾貴史先生はこうも述べている。

「運のよしあしにこだわるなら、運のよしあしを乗り越えるしなやかさを持つことこそが、一番大事だと思うわけです」

綺麗事すぎ(笑)

言葉尻の問題かもしれないが、「しなやか」ではすまないこともある。

早期発見が難しく、治癒率の低いがんに「運悪く」かかった人はどうするのか。

そんな人に「しなやかに」と説教できるのか

筆者なら、そういう人には、大いに「運の悪さ」を呪えと勧める。

きれい事を言ったって始まらないだろう。

「何で自分だけが」と思って当然なのだ。

思ったことは、楽天のノムさんのように体裁もわきまえずぶちまければいい。

ぶちまけ尽くしたとき、何か見えてくるもの、肝の据わり方も定まってくるかもしれない。

それはちっとも「しなやか」なやり方ではないが、命をおびやかす場合ならいいじゃないか。

「運」という言葉の概念は、科学と価値観が絡む複雑で奥が深いものだ。

物理学帝国主義を振り回したって、世の中何も変わらない。

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