ジャパンスケプティクス機関誌発行の遅れについて

   2015/05/01

機関誌の遅れ

ジャパンスケプティクス機関誌の発行の遅れについては、しばしばこのサイトのコメント欄や個人的なメールで質問をいただいてきた。会のことだから、会の中で解決して欲しかったが、松田卓也会長は、残念ながら事実と違う発表を行った。それは、会員を騙すことになるし、私の労苦も報われないので、会を離れた私は、やむを得ずこの場で明らかにしたいと思う。

松田卓也氏がジャパンスケプティクス会長になったときに、機関誌で挨拶を寄稿した。

それによると、寿岳潤編集長が病気で任務を果たせなくなっても、後を引き受ける人がいなかったから、会誌の発行が遅れたと報告されている。

また、編集長になった高橋昌一郎氏は、機関誌上で、寿岳潤氏のおかけで機関誌が発行できたと感謝を編集後記で書いている。

よくもこんなデタラメを報告できたものである。

これでは、事態の描き方が180度違うではないか。

そんな報告では、ときには寿岳潤氏の理不尽な「叱咤」まで受けながら、筆者個人だけでなく、会社として6年間お仕えしてきた(つまり会とは何の関係もない人間までノーギャラで巻き込んできた)、筆者や弊社の立場がない。

とくに松田卓也氏の報告は、筆者にとってあまりにも辛く悔しいものだった。

そもそも、事態の一部は機関誌のバックナンバーで公然と発表されているのに、会長がそれと両立しない報告を行うことは、会としての信用を損ねるものでしかないだろう。

天羽優子氏のブログからは、私のこうした話はバイアスがかかっているとなじられているが、機関誌で確かめもしない奴にそんなことは言われたくないものだ。

たしか、天羽優子という会員は当時在籍していたはずだから、確かめようと思えばいつでも確かめられるはずである。というより、ちゃんと機関誌を読んでいればわかるはずである。

いずれにしても、会員は、筆者が機関誌制作に長く関わってきたことを知っている人も少なくない。

だから、せめてここでかいつまんで、経緯を書かせていただこう。

機関誌が遅れた理由

寿岳潤氏は、ジャパンスケプティクス機関誌「ジャーナル」の第9号から第11号まで編集長を名乗っていたが、年1回しか出ないこの機関誌が、この時期大幅に発行が遅れた。これは会員なら皆覚えている。

寿岳潤氏は「編集長」といいながら、割付や編集作業には一切タッチしておらず、原稿をチェックするだけの「査読人」でしかなかった。

実際の作業を行っていたのは筆者である。

そのような「二重構造」であると責任の所在が曖昧になるものだ。

ここで改めてはっきりしておきたいが、当時の機関誌発行が遅れたのは、すべて寿岳潤氏の責任である。

編集長だから責任がある、という形式的な話ではなく、寿岳潤氏自身の落ち度が発行遅れの直接の原因だったのである。

寿岳潤氏は、投稿者の原稿受付窓口を自分に一本化したまま、原稿を紛失したり、本人曰く「サボり病」で予定通りの日程で査読を行わなかったりした。

それは、ほかならぬ寿岳潤氏本人が認めている。

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だから、いくら現会長がかばっても無駄である。

ジャパンスケプティクス機関誌、シンポジウム不掲載問題

会長の安斎育郎氏やその秘書、さらに筆者がずいぶん催促しても、なんだかんだと言い訳をしていた。原稿がないので、こちらは作業のしようがなかったのだ。

ある雪の日の会議では、筆者がインフルエンザで会議に出席できなかったために、弊社の代わりの者を会議に出席させた。

副会長としての責任と、遅れている機関誌のことを解決したい気持ちからそうさせてもらった。

そのとき、安斎育郎会長が寿岳潤氏に「会員のためにもう機関誌を出さないといけないと思います」と催促すると、寿岳潤氏は「そんなことないと思います」と否定したという。

残念ながら、このやりとりはテープに録っていないので、言った・言わないの話になれば筆者が分が悪い。

だが、結局その後も1年以上、機関誌は出ていないという事実があるから、「言わない」と言い張ること自体にあまり意味はない。

機関誌の遅れについては、安斎育郎氏が総会で寿岳潤氏に頭を下げさせている。

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そして機関誌にも文章として記録されている。

いずれにしても、機関誌の発行の遅れは、安斎育郎会長時代に会が正式に認めたということである。

だから、天羽優子ブログの私へのコメントは事実に基づかない中傷である。

現在役員をしている加門正一氏の原稿など、そもそも投稿があったという事実すら、寿岳潤氏以外誰も知らなかったという驚くべきはずかしい事態で、加門正一氏から安斎育郎氏の秘書に確認が入り、そこで初めて塩漬けの事実が明らかになり、筆者が何の責任もないのに安斎育郎氏の頼みで加門正一氏に謝罪をしたことがあった。

なぜ責任者ではない、何の過失もない筆者が謝罪したのか。

それは、筆者が当時から実質会誌を仕切る立場として認められていたからにほかならない。

2003年に寿岳潤氏が倒れ、同年11月に東京丸の内で行われた役員会議では、安斎育郎氏が筆者を編集長に指名して、機関誌の遅れを取り戻そうという話が決まった。

繰り返すが、筆者が名実共に編集長で進めていくというのは、役員の会議で正式に決まったことだった。

安斎育郎氏の当時の話では、もう寿岳潤氏は会議に復帰できないだろうということだった。

メーリングリストで行われた当時の役員間のやりとりでは、一部の役員は筆者を編集長として信頼し、激励もしてくれている。

ところがその後、寿岳潤氏は回復したことになっており、夫人を通じて、自分が休んでいる間に勝手に編集長の交代を決めたとその決定に不服を表明した。

筆者は、安斎育郎氏の報告から見ても、当時から寿岳潤氏が回復したとは思っていなかった。

夫人が寿岳潤氏の名代でいろいろ言っていたのだろうと思う。

だが、編集長の交代は、寿岳潤氏が倒れてもはや会議にも出ることができない状態になったために、会議で決まったもので、正当な手続きを踏んでいる。

もとよりその時点で2年以上発行が遅れている(結局4年遅れた)以上、その責任は免れないだろう。

だいいち、それは会を混乱させるものでしかなかった。

会には寿岳潤氏に忠実な委員がおり、彼らが寿岳潤氏の言いなりになって動いたため、筆者が編集長としてスムーズに作業を行えない状態になってしまった。

一本気な筆者は、そうした会の陰湿でデタラメな運営にがまんができず、会で決められたことを守らず、裏切るような行為を行った者らを強く非難。

「これでは遅れている機関誌が発行できない。会の決めごとをきちんと守って欲しい」と強く訴えた。

だが、会は寿岳潤氏に毅然とした態度を取るのではなく、決めごとをひっくり返して寿岳潤氏のごり押しを認める方向になしくずしに進んだ。

その具体的な提案を行ったのが松田卓也氏だった。

具体的には、いったん編集長権限を安斎育郎会長に戻して、役員が実質的な作業を行う(おそらくは筆者が行うはずだった)という前提で話し合っていたのに、それを白紙に戻して寿岳編集長で進めるというものだった。

要するにまぜっかえしたのだ。

寿岳潤氏が、投稿原稿を渡さないという子供じみた抵抗を見せたことも、そうせざるを得なかった理由ではあるだろう。

が、寿岳潤氏に対して、運営委員会として毅然とした態度を示せば、また違った展開もあっただろうと筆者は残念に思う。

しかし、何もしなかった。しなかったばかりか、少なくともそうした事態に勇気を奮って批判の声を上げた筆者を悪者にして、人間性まで非難した。

いずれにしても、筆者へのカラ手形は、何の謝罪も説明もないままにうやむやになった。

筆者が、しょせんこの会では使い捨ての駒のように扱われていることを改めて知り、大変悲しくなった。

こうした混乱によって機関誌の発行がさらに遅れても、会員に対しては何も真実は伝えられなかった。

黙っているどころか、混乱のきっかけを作った寿岳潤氏を、まるで混乱収拾の功労者のように高橋昌一郎氏が描いたのは、会員を欺いただけでなく、筆者に対して思いやりを欠いた歪曲ではないだろうか。

冒頭の松田報告に戻るが、機関誌制作は、後任がいなかったわけではなく、会としてはきちんと筆者で行くと正式決定もしていた(し、それ以前から実質筆者が制作していた)。

だが、寿岳潤氏が交代を拒んで混乱したために、筆者が編集長として新たにスタートできなかったというのが本当の話である。それ以外の説はありえない。

松田卓也氏がそれを真面目に説明しなかったのはどうしてか。

寿岳潤氏をかばっただけでなく、日頃から抱いていたであろう筆者に対する悪意や軽視もあるからではないかとさえ筆者は勘ぐっている。

いずれにしても、筆者は在任中は任務を果たし、更迭されるような事由はなかったと胸を張って述べておきたい。

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