ジャパンスケプティクス機関誌、シンポジウム不掲載問題

   2015/02/08

どこが感情的だーっ
ジャパンスケプティクスという、いわゆるオカルト的現象や疑似科学について、批判的・科学的に調べると標榜する会の、機関誌が以前から遅れていた。もともと活動が殆ど無い会のため、会員にとって唯一の“入会した意味”が機関誌である。筆者は同会の副会長をもうやめているが、未だに問い合わせがある。たしかに、筆者が関わった頃の機関誌がまだ出ていないので、そのことについて発言する必要があるだろう。

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ジャパンスケプティクスの機関誌は、筆者が役員をしていた頃は、『NEWSLETTER』という活動報告と会員の投稿を掲載したものが年数回、『Journal of the JAPAN SKEPTICS』という、その年度の総会の日に行われる記念講演とシンポジウムの載録、および調査レポートを掲載したものが年1回出ることになっていた。(その後、会員が減り、『NEWSLETTER』はなくなったらしい)

ちなみに、後者の論文が学術的な実績になるのかどうかを、その後会長になったある物理学者が質問していたが、運営委員会としては、「ならないんじゃないか」ということだった。

後者は、筆者が編集を受け持っていたのだが、その前任者が、論文集だから査読人が必要だと提案し、長老役員がそれを担うことになった。

ところが、長老役員が原稿をもったまま、なかなか査読を行わないために、機関紙の発行が遅れてしまったわけだ。

それは、会員にとって不都合なだけでなく、まるで私がサボっているかもような誤解を与えかねないことなので、なんとかしてもらいたかった。

最初、長老委員は、私の催促に対して、「老人的サボり病です」と、自分の査読が進まないことを自己批判していた。

当時の安斎育郎会長も、何度もその長老委員に催促しているのだが、それが追い詰められたと思ったのか、長老委員は次第に態度を硬化させ、「学会では投稿が何年も掲載を待たされることはめずらしいことではない」などと、居直り始めてしまった。

その結果、『Journal of the JAPAN SKEPTICS』が一時期は4年も遅れていた。

それ自体、大変問題なのだが、さらに由々しきは、毎回載せることになっていたシンポジウムが掲載されなかったことである。

その後、役員は改選され、安斎育郎会長も、私も、長老委員も役員を降りているのだが、機関誌は相変わらず、長老委員が関与する形で作られていた。

シンポジウム不掲載も、長老委員の独断で決められたことだった。

という前提を頭に入れていただいた上で、以下をお読みいただきたい。

活動が寂しくなっていたジャパンスケプティクス

ジャパンスケプティクスの機関誌『Journal of the JAPAN SKEPTICS Vol.15』が送られてきた。

2折りに満たない28ページ。いよいよ中身は薄くなっていく。筆者が編集を担当した4号前は112ページあったので、約4分の1の厚さに減ったわけだ。

筆者が苦労して苦労して苦労してせっかく平綴じにまでもってきたのが、あっさり中綴じに戻っている(涙)。

2つの機関誌を併合して回数を減らしてもこのザマだから、客観的に見れば、安斎育郎前会長時代に比べ、会活動は言論・研究発表活動において量的に(おそらく質も)後退していると指摘せざるを得ない。

編集後記によると、現編集人の高橋昌一郎氏はレイアウトを変えたことを自慢しているが、それは筆者が在任中から提案してきたことである。

ところが、筆者が担当していたときは、松田卓也現会長を含めて現在残っている役員は、誰一人として筆者の編集作業に協力せず、いくつかの提言にも何の返事もしてもらえなかった。

安井至氏という“大物”を招聘しながら、記念講演&シンポジウムの参加者が、たった38名(うち非会員2名)で「盛況」と表現するのも、組織内に向かって「いいこと」しか語れない内向きの思考や志の低さがうかがえる。安井至氏にも失礼である。

2000年に江川紹子さんと、当時は会員でなかった紀藤正樹氏をお招きしたときは、約70名収容の会議室が”フルハウス”で立ち見もでた。

翌年の的川泰宣氏のときが約60名、次の考古学捏造問題のときも、テーマが会のメインテーマではなく、かつ地味ではないかと心配されたが、それでも参加者は最終的に40名近くになっていた。

2004年頃までは、筆者がインターネットで宣伝活動を行っており、そこから参加した非会員の数が、現在よりも多かったのだ。

たとえば、2000年の場合、筆者の宣伝が源泉であると特定できた非会員の参加者は16名だった。

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「特定できた」というのは、筆者経由で参加の予約をした人がそれだけいたということで、筆者の宣伝を見て、当日、まっすぐ会場に足を運んだ方の人数は含まれていない。

おそらくその方々を含めれば、さらに「宣伝による動員」の数は増えるであろう。

しかし、松田卓也会長は筆者のそうした活動を過小評価したのか、筆者に宣伝の依頼もなく、また新体制が何か具体的な宣伝広報を行っている様子も見受けられなかった。

その結果が今回の「2名」なのだ。

筆者ごときのやることなど、くだらなくうつったのかもしれないが、目立たないけれど地道に努力する筆者の9年間を、松田卓也会長は侮りすぎていたのではないだろうか。

会はシンポジウム不掲載問題にどう決着をつけるのか

それはさておき、同会では年1回、唯一といってもいい活動(苦笑)として、総会の日にゲストをお招きして記念講演とシンポジウムを行っているが、機関誌ではその誌上載録を行ってきた。

ところが、2004年度以来、シンポジウムの載録が行われていない。

2006年度以降は新体制になり、おそらくマンパワーの関係から、新体制の方針として載録をやめたのかもしれないが(いずれにしても会員に対してそれを断らないことは釈然としないが)、ここで述べておきたいのは前体制の2004年分と2005年分についてである。

地方在住で、講演&シンポジウムを見に行けない会員にとって、そのリアルな載録は会員であることの唯一といってもいい利益になっている。

にもかかわらず、そのひとつが何の断りもなくのぞかれたのだから、事は重大である。

2004年(「地震の前、動物は何故騒ぐのか」)の場合はもちろん掲載される予定で、当時同会の副会長だった筆者は、講演者からデータも預かっており、載録に向けて打ち合わせも行っていた。

ところが、編集作業の担当を希望する長老委員が、運営委員会の取り決めを守らず講演者に勝手に接触し、結果としてシンポジウムの中身は載録されないとの報告を行った。

2人の間に何があったかは明らかにされていないが、講演者の方が載録を断ってきたか、長老委員が独断でボツにしたか、ごく当たり前に推理すればそのどちらかでしかない。

当日のシンポジウムは、「科学とは何か」という視点から、安斎育郎会長(当時)の進行で非常に興味深い話もあった。

それも含めて全てを正々堂々と載録し、会員に読んでもらって考えてもらえればいいことである。

そもそも、その講演&シンポジウムに、長老委員は出席していなかった。

出来上がってきた機関誌は、シンポジウムが載録されていないだけでなく、講演者に対する反論の投稿だけは2本も載っている。

これはあんまりだろう。

少なくとも、当日のリアルな再現にはほど遠い一方的な紙面構成であったと言わざるを得ず、講演者には気の毒なことをしたと、筆者個人は思っている。

読解力のない短気な人の反論が来ないように前もって書いておくと、いわゆる宏観異常現象に対する批判的立場を否定しているのではない。

そうではなくて、講演者を招聘したのは会の側なんだから、少なくともシンポジウムで実際に語られた事実ー講演者の真意はあますところなくお伝えしろ、その上で堂々と批判しろ、ということだ。

もし、長老委員の独断による載録見合わせだったなら、それは会が長老委員の家父長的な支配を受けているといわれても仕方のない誤りであるとともに、長老委員が一般会員の判断力を信用していないということになる。

また、講演者の意向で載録が見合わせられたとすれば、いったい何がそうさせたのか、会員のためにも、それをきちんと明らかにする責任が会にはある。

2005年度の「『創造VS進化』論争」も同様である。

会は、このときのシンポジウムの載録を機関誌で行うと予告(NEWSLETTER No.58)した事実がありながら、それを守っていないし、守らないことを詫びてもいない。

時間が経てばごまかせるとタカをくくっているのだろうか。

前副会長として自戒の念も込めて打ち明ければ、この会にはこのての思い上がりやいい加減さが目立つ。それが残念である。

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