疑似科学批判における「科学者」と「マスコミ」と「国民」の責任

   2015/05/03

疑似科学批判

疑似科学批判と一口に言っても、その潮流は様々である。簡単に述べれば、騙す側と騙される側がいて、どちらの何にに批判の力点をおくかという点で、必ずしもすべての疑似科学批判者の立場が同じというわけではない。今回はその点についてスケプティクスの立場から書いてみよう。

その前に

当サイトを読んでくださっている佐野啓明さんが、「知らなきゃ絶対損する健康法の裏技・裏情報」というメルマガを発行されています。

医療や健康といったテーマはなかなか一筋縄ではいかない問題で、「普通の人」の筆者には手に負えるようなものではないのかもしれません。だからといって、他人任せにして自分の頭で考えることから逃げてはならないと思っています。

「○○はがんの予防になる(ならない)」といった類の調査なども、時を経てより高次なところで定説がひっくり返ることがあります。既知には謙虚に学びながら、未知のものは先入観なしにありのままを見る姿勢が求められます。

その意味で、佐野啓明さんのようにこの問題にかかわっておられる方々のメルマガは大変参考になります。

ちなみに、佐野啓明さんの発行部数の目標は12月末までに1万部だそうですが、以前書いたように、筆者も同じ数字を目標にしています。このジャンルの相場なのかもしれません。

ということで、本題に行きます。

本当に消費者に求めるべき「責任」なのか?

「私たちが一番悪いし、言い訳したくないが、安い物ばかり追い求めるのはどうか。販売店も消費者もよくない」

今年6月、北海道苫小牧市の食品加工卸会社「ミートホープ」が、「牛ミンチ」に豚肉を混ぜて出荷していた問題で、ミート社本社や取引先など計約10カ所が家宅捜索された際、同社の田中稔社長が報道陣に対して放ったコメントです。

これを聞いた私たち消費者のおそらくほとんどは、そして販売店も、その責任転嫁に腹を立てたと思います。

「安い物ばかり追い求める」といいますが、不正をしてまで安くしろという「追い求め」などしてはいないし、そもそも、消費者の側から生産者に対して「追い求め」るシステムなど、流通過程のどこにあるのでしょうか。責任転嫁もほどほどにしてほしいものです。

アンケートやモニター制度のようなものは一部にあるにしても、消費者は通常、その商品を買うか買わないかという消費行動でしか態度を表明できません。

不正がないようにするというのは、ビジネスコンプライアンスだのCSRだのという言葉を持ち出すまでもなく、もっぱら生産者の矜持やモラルによるものであることぐらい小学生でもわかることでしょう。

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なぜ、本稿でその問題をとりあげたかというと、残念ながら、科学者や科学知識のある側の一部には、それが国民に対して正しい知識を求める善意からのものであったとしても、田中社長の捨てぜりふと同じような過ちを犯していることがあるからです。

そしてそれが、疑似科学問題の解決の障壁のひとつになっているように感じるからです。

いったい、彼らはいつそれに気付くのでしょうか。

『「食品報道」のウソを見破る食卓の安全学』(家の光協会)という、松永和紀さんの本が手元にあります。

同書は、「科学的知識」を得るために有用な図書ですが、気になるのは、誰が「『食品報道』のウソ」を流すのか、という肝心な問題について、「さまざまな過ちをおかしてきたマスメディア」(138ページ)の責任にし、そのときどきには消費者にも「責任の一端がある」という姿勢を打ち出していることです。

科学者の立場が全てなのか?

たとえば、農薬使用を厳しくする中で、農家が種別上「農薬」ではない害のあるものを使用している「日本の農業の現状」について、松永和紀さんはこう記述しています。

「(消費者が)減農薬だ、無農薬だともてはやし、『農薬と名のつくものを使わなければいい』と一部の農家に思わせてしまったのです」(31~32ページ)

これはまさに、ミートホープ社の田中社長と同じ言い草ではありませんか。

もともと一般の消費者のポジションは、「もてはや」すも何も、農薬に対する知識そのものがないところにあります。

「農薬が有害ではないか」と思うに至ったとすれば、それはそのような情報が他者から与えられたからです。

「減農薬だ、無農薬だ」という技法も消費者はもともと知りません。

消費者が「もてはや」すようそれをバラ色に描いた情報提供者がいるから「もてはや」すのです。もとより、消費者が使用する農薬を求めるシステムが「日本の農業の現状」にあるわけでもありません。

「害のあるもの」の使用それ自体は、もっぱら農家自身の矜持やモラルの問題です。

もし、それが法律に触れれば農家が罰せられるのは当然です。

「農家に思わせ」たというのなら、その背景として、農家をそこまで追いつめる農家を取り巻く環境、たとえば農業行政から洗い直さなければならないでしょう。

松永和紀さんの言う「現状」の責任を合理的に問うなら、筆者はそう判断します。

社会の構造から合理的に分析するというのはそういうことです。

「消費者も有機かどうかにとどまらず、どんな栽培方法かにも注意を払って買うべきでしょう」(42ぺーじ)という記述もそうです。ここでも「結局知識のない奴が悪い」と読める結論に落ち着いているのです。

松永和紀さんはBSE問題で、「正しい科学情報を欲しがっている人がいる」(81ページ)ことを実感したと言います。つまり、消費者というのは「正しい情報」がきちんと得られない立場にあることをご存じなわけです。ならば、なおさら、なぜそのような「不遇」な消費者に「責任の一端」を求めるのか、「正しい情報」がきちんと得られない社会構造にこそ「責任」を求めないのか、それが残念でなりません。

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松永和紀さんはおそらく、科学知識のある立場を取材し続け、またご自身も大変博学であることから、消費者に賢くなってもらいたいという善意が、結果として「知識のない奴が悪い」と解釈できるような主張になってしまったのではないでしょうか。

しかし、それはやはり、科学者の立場に立った一方的な発言です。

消費者が間違った情報に踊られている場合、「踊らされている」事実を批判し、正しい情報を提供することは科学の専門家の側として積極的な対応であると思います。

だからといって「踊らされている」責任を、消費者の「リテラシー」だの「心がけ」だので完結することが合理的なとらえ方でしょうか。

消費者が間違っているというのなら、それは間違った情報を流した者に責任があるでしょう。

「間違った情報を流した者」といっても、当事者(メディア)責任だけではなく、行政や企業といった背景からもそれは見ていくべきだと思います。

そして、それがいかなる意図によるものなのか、という分析まで行わなければなりません。

少なくとも、「踊らされている」仕組みを合理的に明らかにしないまま、消費行動以外に手段を持たない「受け手」の消費者にいきなり「責任の一端」を押しつける論理は、およそ「科学的」を説く人の言い分ではありません。

といっても、同書は、たんに消費者に責任をおしつけていることが目的の薄っぺらい本ではないこともわかります。

マスメディアがなぜ誤った報道、一面的な報道をするのか、という点も触れています。科学報道の難しさもきちんと解説されています。

つまり、記載されているひとつひとつの事柄については実情を客観的に伝え分析もされ、私たちの理解を助けてくれる好書なのです。

それが、ではなぜ消費者を惑わせる健康情報が出てくるのか、生産者を動揺させる事態に至るのか、という「全体」についての判断になると、結局「消費者や記者の知識」に還元されてしまう。

そうなってしまう理由について、筆者は次の2点を挙げておきます。

1.疑似科学と科学者の関係がきちんと追及されていない
2.疑似科学問題を「知識の問題」としてとらえ、「社会問題」としてとらえていない

それが、「個々に書かれていることは正しいのだが、全体としてみると『?』」という読後感を抱かざるを得ない出来になってしまうのだと思います。

疑似科学は「国民が無知」だから発生するのか?

たとえば、松永和紀さんは、健康食品などで、細胞実験の結果をもとに「がんに効く」と喧伝する人を「ナンチャッテ学者」と名付け、学者の中の「一部」ととらえています(96ページ)。

その人たちがメディアに登場して「いい加減なこと」を喧伝しているから疑似科学が蔓延するのだといいます。

つまり、学者については一部の人「だけ」が悪いだけだ、といいたいようなのです。

しかし、筆者は「ナンチャッテ」の要素は、「一部」ではなく実は学者すべてがもっているのではないか、と考えます。

老年学者・柴田博さんはこう言っています。

「社会人の間に広がる認識は、一般社会人が自発的に発想するものではありえない。必ず、専門家といわれる学者が発信源となり、実践家やマスコミがこれを広めていくのである。」(『中高年健康常識を疑う』講談社 67ページ)

柴田博さんは、コレステロール値、メタボリック症候群、BMI、高齢者の食生活など、現代の医学や保健学の重要な課題となっている中高年の健康常識が、いかに科学的根拠のないいい加減なものであるかを暴いています。

柴田博さんはその原因として、そうした問題に関わっている学者たちが、研究費を獲得するために、統計を我田引水し、基準をねじ曲げてまで自分が専門とする病気が「増えた」といってはいないか。

それが、間違った医学・保健学の常識にされているのではないか、と疑問を呈しています。

科学者の倫理の問題は、実は倫理だけに留まらず、疑似科学の発生に直結しているかもしれない、ということを指摘しているのです。

学者の側からこうした疑問を呈するのは、勇気と見識のある態度です。

科学の発展に道をつけるのは科学者ですが、疑似科学の発信源も、その意図や自覚にかかわらず実は科学者(専門家とされる人)である場合が少なくありません。

松永和紀さんに限らず、「疑似科学批判派」の中には、この点で誤解やごまかしがあるように思われます。

科学者は、疑似科学を解く「正義の味方」としてだけ見るのではなく、実は疑似科学の「発信源」としての責任も問わなければならない存在なのです。

メディアには「広めていく」責任、消費者には「踊らされる」問題点がたしかにあります。

しかし、それは「発信源」と同列において責めるものでしょうか。

「発信源」がいかなる意図や演出で「広めていく」存在と結びつき、その結果、どういう弱点から「踊らされ」てしまうのか、その仕組みや関係全体をリアルにすることこそが、疑似科学問題を「科学的にとらえる」ことであると思います。

松永和紀さんに限らず、理系の方は、科学者という存在に甘いだけでなく、なぜか、国民の認識の成り立ちや責任について、社会の構造全体から追及していくことが苦手なように思われます。

もっぱら、訓詁学的にその説自体が科学的に真なるものかどうかを述べるだけ。

しかし、そうした「要素還元主義」こそ、反科学派が科学(的立場)を攻撃する口実になっているのです。

なにをどれだけ食べたらよいか。

なにをどれだけ食べたらよいか。

  • 作者: 柴田 博(日本応用老年学会理事長・医学博士)
  • 出版社/メーカー: ゴルフダイジェスト社
  • 発売日: 2014/05/12
  • メディア: 単行本

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