「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ

先日、人前で仕事をするある人に、こっそり「ら抜き言葉」を注意してやったら、以来、その人は筆者と視線を合わせないようにしている(笑)

執念深いのも結構だが、恥をかかないようにこっそり教えてやったんだから、むしろ感謝されても良いだろう。

世の中、誰に見られているか分からない。
そんなことで、「こいつはダメだ」と思われたら損だろう。

調べてみると、ネットでは、「ら抜き言葉」擁護派が自分のブログで懸命に理屈を並べている。

たとえば、ら抜き言葉が「文法に沿っていない」という批判に対して
そもそも文法そのものがおかしいという理由から
その批判を「お粗末」と言い切る者もいる。

オカルト・疑似科学の自称否定派にもいそうだな、
そういう勘違いした独善的な御仁は。

もっとひどい根拠として、世間に広く定着したらそれが正解、
なんていう意見もある。
その理論だと、「既出」の読みが「ガイシュツ」で定着したら、
そうなってしまうということになるが(笑)

勘違いしてはならない。
「ら抜き言葉」の是非は、
それ自体がふさわしいかどうかではない。

悪法も法であるように、文法は文法。
文法的に違えば、文法のテストなら×がつく。
だから、ら抜き言葉は間違い。
ただ、それだけの話だ。

就職やお見合い、進学時の面接で「ら抜き言葉」を
使ったために、聞く人が悪印象を持ち
不本意な結果になったとして、擁護派は責任をとれるか?

中高生が文法の試験で「ら抜き言葉」を書いて
間違ったために成績に響いたらどうするんだ?

少なくとも文法通りなら×はつかない。

着物の着方、テーブルマナー、どんなことにも個人的に
おかしいな、不自然だなと感じる場合はある。
合理的な進歩とは無縁の韜晦趣味な世界なんて
この世の中にみちている。

いちいち個々の価値判断を
言い出していたら、きりがない。

法律や文法は、ともに同じ社会に生きる私たちが共有する
価値の大系だ。
いい悪いではない。
決まったことが「正しいこと」なのだ。

まあ、ディベートゲームとして、
そういう擁護の「理論武装」は
楽しいんだろうけどな。

そんな理論構築に熱中するなんて
力の出し方を間違えているような気がする。
世の中、もっと頑張らなければならないことはあるはずだ。

そういえば、某疑似科学批判サークルの情報工学の先生も
シンポジウムで、「ら抜き言葉」を使っていて聞き苦しかったな。

要するに、まず国語力、という認識がないのだろう。


【関連する記事】

トラックバック(1)

このブログ記事を参照しているブログ一覧:
「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ

このブログ記事に対するトラックバックURL:
http://skeptics.geo.jp/mt/mt-tb.cgi/208

» ら抜きについて(数えられなかった羊)~のトラックバック

 いわゆる「ら抜き言葉」について、このエントリが盛り上がっていました。 「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ:生活の中の理性と非合理  よく読む... 続きを読む

コメント(63)

「ら」抜き言葉といえば、本多勝一氏が文法的には寧ろ合っていると言っていたと記憶しています。そもそも日本語文法が「価値の大系」である以上、その価値の体系って時代と共に変化していても何の不思議も無い訳で・・・・・

newKamer :

 ら抜き言葉が文法的に誤りと言えるかどうかは、調べたことがないのでわかりませんが、以下の話はその通りとなるのではないでしょうか?
(文法的な正誤については文法の専門家である言語学者の間でも意見が分かれるらしいですし、素人が言えることは限定的でしょう。)

> もっとひどい根拠として、世間に広く定着したらそれが正解、なんていう意見もある。
> その理論だと、「既出」の読みが「ガイシュツ」で定着したら、そうなってしまうということになるが(笑)

 例えば、「新しい」は「あらたしい」から「あたらしい」へ変化した言葉です。漢字としては「あらたしい」が適切ですが、時代の流れによって「あたらしい」という読みが正しいことになりました。
 「定着」をどうとらえるかという問題はありますが、間違った読みでも、定着してしまえば正しい読みということになるでしょう。
 意味変化も同様で、例えば「お前」とか「貴様」とかも、本来の意味と変わってしまったものが「正しい」とされています。

 こういったものは(学校を卒業してしまえば)、文法的にうんぬんというよりも、TPOをわきまえてという理解が正しいと思います。
 「ら抜き言葉」を「間違いだ」と考えて不愉快になるような人がいるところでは、使わないといったようなことですね。

NT :

>その理論だと、「既出」の読みが「ガイシュツ」で定着したら、
>そうなってしまうということになるが(笑)

そうなるんですよ
http://q.hatena.ne.jp/1074071669

tj :

そんな貴様は「新しい」を「あらたしい」と読むんですね

hogehoge :

別にいいんじゃないですか、ら抜き言葉くらい。
もう数年すればら抜き言葉の方がスタンダードになっていると思いますよ。あと、
>もっとひどい根拠として、世間に広く定着したらそれが正解、
>なんていう意見もある。
>その理論だと、「既出」の読みが「ガイシュツ」で定着したら、
>そうなってしまうということになるが(笑)

これなんですけど、そのとおりですよ。元々、新しいという言葉は、(あらたしい)と読んでいましたが、時代と共に読みが変化したんです。そういう言葉は沢山あります。

もちろん知識として、ら抜き言葉を使うと悪印象を抱く人もいると言う事を知っている方が賢明なのかもしれませんが。

  :

これは……過去の記事から粗探しさせようという罠ですか?

(結果、「い」抜き言葉が多かったので訂正された方が良いと思います^^)

だい :

なるほど、たしかになにが正しいか、という議論はくだらないですね。はっとさせられました。

誤読が定着して、いま正しいとされるものはいくらでもあるように文法も変遷しているように感じます。つまり、正しい、と言い切れるものがあるのかは分かりません。 http://q.hatena.ne.jp/1074071669

ただ、事実は、旧語法を正しいと思う人間と、新語法を正しいと思う人間がいる、ということではないでしょうか。
そこの境界でどう振る舞うべきかというのは難しい問題です。

それでも、過渡期ではそうした指摘をしてくれることはとてもありがたく、あなたはたしかに感謝されてしかるべきだと思います。私の周囲にはあまり指摘してくれる人がいず、恥をかくことしばしばです。

sls :

じゃぁ消耗ってなんて読みますか?
古文が授業科目として存在するのはなぜ?
文法だって進化するとおもいますけど。

小野 :

晒しはてブされてますよ

指摘と信頼性。 :

外を歩いていて、突然に見知らぬ誰かに、
「あなた、姿勢悪いですよ」
って言われたらイラッとしますよね。
何でお前に言われなきゃいけないんだと。

どんなに正しいことでも、嫌いな人とか無関心な人に言われたらイラッと来るものです。
最初の相手にとってのあなたというのは、そう言う存在だっただけなんじゃないかと。
それが正しいかどうかと、あなたが好かれているかどうかは別問題なんです。すまないのですが、ここに述べていることは的外れです。

lm :

>その理論だと、「既出」の読みが「ガイシュツ」で定着したら、
>そうなってしまうということになるが(笑)

今までにも、そのようなケースは往々にしてありますよ。
例えば漢字の読みの試験で、「重複」「早急」を「じゅうふく」「そうきゅう」と書いても今は丸がもらえます。

とはいえ、ら抜き言葉は今の所スラングの域を出ず、正式には誤用ですから注意した内容自体は正しいと思います。
ただ注意しただけで目も合わせなくなるのは、注意の仕方が悪かったのではないかと疑わざるを得ませんが。

たけし :

あなたって自分が痛いことに気がつかない人ですね。笑

名無し :

>もっとひどい根拠として、世間に広く定着したらそれが正解、
なんていう意見もある。
その理論だと、「既出」の読みが「ガイシュツ」で定着したら、
そうなってしまうということになるが(笑)

仮に定着したらそれが正しいと判断される場合もある。定着するということは不快に思う人も少なくなっていると考えるのが自然である。

>いちいち個々の価値判断を
言い出していたら、きりがない。

論理的に一貫性がなくて矛盾が多い。世間に広まったときの話をしているのに個々の価値判断を持ち出すのはおかしい。


といいつつ、せっかく正しい日本語とそうじゃない日本語に関心が集まっているのだから、この際正しい日本語を覚えようとする方向に向かってほしかったりする。

774 :

>>sls
>「古文が授業科目として存在するのはなぜ?」
歴史が授業科目として存在する理由と同じ。

>文法だって進化するとおもいますけど。
ならば「ら抜き言葉」が「進化である」という厳密な証明を。
我々にとって現代の文法は大昔の漢文より便利でしょうが、
当時の人々は現在の文法を「退化」だと思ってました。

進退云々を持ち出すのは実にありがちな論点のすり替え。


>>小野
世の中にはバカが多いですから。
仮に理屈が間違っていても多数派に従ってバッシングしていれば
「彼ら」は気持ちよくなれますし。

「現在定められているルールが正しい」というだけの主張を陳腐で知性の欠片もないイメージ論法で批判してるだけのはてブコメが多すぎ。
「日本の法律」すら「絶対に正しい」ことはないが(他国の「正しさ=法律」は全く異なる)この国では正しいことになっている、という主張と何ら変わらないのに。

俺 :

食べられるぞ


誰に?

山田 :

そんなこと言い出したら方言とかどうするの?
例えば「ゴーヤー」
「ツルレイシ」って言われてもわからない人のほうが多くないですか?

「世間に広く定着したらそれが正解」って正しいと思いますよ
でも「ゴーヤ」は撲滅したいです。
「ゴーヤー」です。

nsoderland :

ある日本語の先生が こんにちわ と書いたテストを 私が 訂正したら 今は これでいいんだよと 言い張られました。劣等感からの自己保護からだと 思います。

言葉は生き物 :

「ら抜き言葉」を「間違い」と言い張るくだらなさ
で次回はエントリーしてください。

読み手からすれば同レベルの主張です。

青木 :

確かに文法は大事ですね。注意された方も、そんなことで聞き苦しく感じてしまう貴方もどちらも許容力が低いといったところでしょうか。

国語素人 :

消耗(しょうこう)漏洩(ろうせつ)重複(ちょうふく)貼付(ちょうふ)
すべて定着しました。
http://qanda.rakuten.ne.jp/qa2535297.html?order=DESC&by=datetime

上の質疑のアンサー#5とその添付URL面白いですよ

ヒサ :

文中で太字になっている“価値の大系”という表記は、文脈の流れを汲む限りでは“価値の体系”と書くべきではないでしょうか。国語力を云々するなら正確な表記を心がけて欲しいものです。

匿名 :

>消耗
百姓読みって初めて知った
ありがとう
「しょうこう」って打っても、IMEは「消耗」を選択肢に出さないな
ら抜きを指摘するATOKだとどうなのかな?

こういった話題では往々にして記述文法と規範文法の区別がない為に議論が成り立たなくなってしまいますね。

ササ :

注意の仕方が悪かったのでは?
間違ったことを言っていないのに関係が悪くなってはもったいない。

t-m :

なんで素直に「じゃあちゃんとした言葉をなるべく使おうか」と思わず
開き直る人が多いんでしょうね

   :

文章から、性格の悪さが伝わってくるわ
すげーネチネチした言い方で指摘したんだろうな
目に見えるようだ

しょうじ :

「雰囲気」ってみんな「ふいんき」とよみますよね?本来の読みは「ふんいき」だけど「ふいんき」といいますよね?
「山茶花」も、最初は「さんざか」と発音していたものを、いつのまにか「さざんか」になったんですよ。

しってます?ねえしってます?知らないでしょ?知らないから「悪法も法であるように、文法は文法。」なんて言ってるんでしょ?大体ら抜き言葉は文法じゃないですからね。

>オカルト・疑似科学の自称否定派にもいそうだな、
>そういう勘違いした独善的な御仁は。

これあなたにもいえてますよ。勘違い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96

bou :

つ 慣用読み
http://d.hatena.ne.jp/argius/20080705/1215276066

言いたいことはわかります。

決めているのは誰かというそもそも論としての
「日本語」に対してもう少しつっこんでほしいところです。
価値の体系、とまで大ぶろしきを広げるのなら、その体系の論拠を。
慣用読みの立場がございません。
TPOをわきまえる話をしたいのであれば、
礼儀としての日本語のあり方をもう少し聞きたいところです。

また、方言も日本語。
ら抜きの方言もあります。
方言は無礼であるかもしれませんし、無礼でないかもしれません。
もしかしたら聞きにくいかもしれません。
そんな時は礼儀を重んじる人間としては、やんわりと注意してあげるとよいでしょう。

bou :

つ 慣用読み
http://d.hatena.ne.jp/argius/20080705/1215276066

決めているのは誰かというそもそも論としての
「日本語」に対してもう少しつっこんでほしいところです。
価値の体系、とまで大ぶろしきを広げるのなら、その体系の論拠を。
慣用読みの立場がございません。
TPOをわきまえる話をしたいのであれば、
礼儀としての日本語のあり方をもう少し聞きたいところ。

また、方言も日本語。
ら抜きの方言もあります。
方言は無礼であるかもしれませんし、無礼でないかもしれません。
このあたり、礼儀の話としても聞いてみたいところではあります。

とはいえ、言いたいことはわかります。

Naka :

ちょっと過激かとも思いますが概ね正論だし同意できます。
ただし指摘してもあまりいいことはないでしょう。
心の中で「頭の悪い人だなぁ」「かわいそうな人だなぁ」
と思って一段高いところから生温く見守るのが
精神衛生上良いかと思います。

よく二進も三進もいかないときに
「煮詰まっている」とアピールしてくる人が多いけど
そういう人には「煮詰まっているならもうすぐじゃない。頑張れ!」
と笑顔で答えてあげるようにしてます(笑)

名無し :

米2
てめーは「輸出」の読みでも答えてろ。
「消耗」は既出とガイシュツの例と関係ないの分かってんだろうな?
慣用音もしくは慣用読みでググレカス。

っつーかこの記事の論点はそこじゃねーし、おめーの意見は的外れだ。
国語力足りねーからそんな恥ずかしいコメント書いちゃうんだよ。
小学校からやり直せ。

米1
難しいからこそ、“正しいとされる”使い方をするべきなんだと思います。基本的には。
蛇足ですが、しかし、生活を営む上では相手、状況に合わせて言葉遣いを変えるなどして柔軟に対応するのも必要なことですよね。
空気読むことも大事マンブラザーズ

言語学徒 :

この記事の主張は、一種の標準語至上主義ないしは方言排斥主義とも言えると思います。(それが間違っていると言うつもりはありませんが。)

説明すると長くなりますので、「ら抜き言葉 言語学」あたりのキーワードで検索してみることをお勧めします。

Wikipedia の「日本語の乱れ」という項目の中の「ら抜き言葉」の箇所でも概観が出来ると思います。

それから、NHKの言葉おじさんの番組でも国語学的な視点から取り上げられていましたね。

繰り返しますが、この記事の主張の「ら抜き言葉を正しいと言い張ることはくだらない」という主張が間違っているというつもりもありませんし、反論するつもりもありません。単に言語学的・日本語学的視点を提供しようとしているだけです。

あえて言えば、これは文法の問題というよりもスタイルの問題としての正誤と言うことはできるかも知れませんね。(TPOにふさわしい言葉のスタイルを選べというような問題として)

saburou :

「価値の大系」と書かれていますが、この場合「大系」はおかしいのではないでしょうか。「体系」が正しいと思います。

dy :

日本語の歴史、いや、言葉の歴史を少しでも勉強してみれば、文法は常に変わりゆくものだと分かるはずなのに。多くの言語学者が文法を過信してはいけないと既に指摘済み。

nipo :

長い目で見て、言葉は乱れるものです。

ですが、言葉というのは意思疎通の手段であり、それが変遷していくことを極力食い止めなければなりません。

積極的に言葉の変化を認めることは愚かなことです。

最近ら抜きに敏感になりました。
(自分の発する)助詞や助動詞の接続も気になります。
もっと現代文法を学ばないと、と思う今日この頃。

坂本純 :

おもしろいテーマですね。自分も何となく「ら抜き」を使うことがあると思いますが、会社とか公式な場では
意識的に避けています。
ある程度の年齢の人が「ら抜き」を使うのは
文法がどうというより、若者に無理に迎合しているようで
何かイタイ感じがするのです。
自分がそう見られたくないし。

みな :

コメント数多過ぎで全部に詳細には目を通していませんが,
直近から数コメント群からだと,
「2010年7月 8日 01:08」の「Naka」さんに最も賛成ですね。
勿論,そもそものブログ主さんの記事自体にも大賛成です。

近年,多いんですよね。
言葉の間違いを指摘されると,素直に間違いを認めず,
「言葉は生き物」とか「誤りではなく揺れ」とか「普及したモン勝ち」とか,
逆ギレで開き直る輩が。

ここのコメント群の中のそーゆー派閥の連中が既に書いている様ですが,
すぐに「新しい」とか「山茶花」とか,誤りが定着した例を出してきやがります。
でも,それは正しい現代語としてちゃんと定着し切った例。
由来が誤謬だったというだけ。
だからこそ,義務教育の国語の授業の作文や,役所に提出する正式な書類にも,
正々堂々と使えるし,書いても言ってもツッコまれないのです。

批判派と擁護派とがケンカしている様な「ら抜き言葉」は,
御世辞にも定着し切ったとは言えません。
擁護派のバカ共は,前述例の作文や書類の様な場面でも,
平然と「ら抜き言葉」を用いてみせてくれるのですか!?

言葉が時代と共に長期スパンで変遷するのは当たり前。
その意味でなら「言葉は生き物」とか,大いに結構。
但し,「ら抜き言葉」は間違いと指摘している場合は,
大昔の古語の話をしているのでも,
「ら抜き言葉」が定着し切った未来の仮定の話をしているのでもなく,
現代語として正しくないと指摘しているのです。
ここで誤謬由来の言葉の例を持ち出してきて間違い日本語を正当化とか,
擁護派はどんだけ論点のズレた阿呆なんですかと。

数年前,一緒に仕事をした某ディレクター様は,
「ひとしきり」を「一通り」の意味だと誤解していたり,
「すべからく」を「全て」の意味だと誤解していたり,
「煮詰まる」を「行き詰まる」の意味だと誤解していたり,
「一段落」を「ひとだんらく」と言ったり,
本当に“日本語の不自由な日本人”でした。
勿論,「ら抜き」も「さ入れ」も標準装備。「れ足す」は……有ったかな?
何故こんな無教養な阿呆からディレクションされにゃならんのかと,
とても不愉快なプロジェクトだった印象が残っています。

理系 :

「ら抜き言葉は間違い」というのは私もおかしいと思います。ら抜き言葉の否定派が言いたいことは正直、自己満足の領域に達しているのかと思います。世界的に考えても、時がたてば言語が変化していくのは当たり前のことなのです。英語を公用語として使う植民地支配されていた国々も今ではネイティブが使う言語とは違うことも事実です。さらに言えばネイティブの中でも昔の言語とは違うでしょう。日本語もこれと全く同じことが当てはまります。日本にも古文があって言語が変化して今の現代語と呼ばれているものになったのでしょう。さらに昔の日本はもっと言語変化が著しかったとも言われています。世代がひとつ替われば言語変化が起こるのは自然の法則ですよ。それを「ら抜き言葉は耳障りだ!嘆かわしい!」などと言っている人々は自分たちが今まで慣れ親しんできた言語が変化してしまうのを嫌っているだけでしょう。そういう人たちは本来日本で使われていた古文を使いなさい。まあ日本語を昔にたどるのは切りがないですが、自分たちの世代の言語は認めて若い世代の言語は認めないなんて言ってる事がおかしいと思いますよ。それと書類などに書くのはまずいいとおっしゃる方がいますが、現在の世の中の中心としている人たちの世代が「ら抜き言葉」を使っていないからです。世代交代が起これば自然と使用できるようになると思いますよ。

nokko :

次の「目くじら」乱発も読みましたが
「2010年8月30日 23:04」の「みな」さんに大賛成です

>批判派と擁護派とがケンカしている様な「ら抜き言葉」は,
>御世辞にも定着し切ったとは言えません。

その通りです
擁護派は定着していると頑張るけど
そこに客観的根拠はないんです

だからブログ主さんが定着するための提案しなよ
と仰っているのに、それが出てこないのです
だから擁護派の負けだと思います

ちち :

みな さんへ:
確かに今はまだ”ら抜き言葉”は文法的には”正しい”にいえませんが,でも今ブログ主さんに指摘された方は,ブログ主さんと普通に喋ったはずです。
普通に,"KY"や,”きもい”等が出てくるじゃいないでしょうか?"KY"を言う方々はテストに"KY"を書かないではないですか?
MSNやメール等で友達と話してる時,相手がちょっと字を間違ったけどでも分かる時も,いちいち訂正しますか?

そうです,正式な場合は多分”ら抜き言葉”を使わない方が良いがもしれんませんが,でも”ら抜き言葉”は方言であれば,話し言葉でも通用して行くのは事実だと思います。

nokko さん:
>>そこに客観的根拠はないんです。

根拠って何のことですか?
”意味が二つある,混乱しやすい”は随分な根拠だと思いますが。
例えば”俺 2010年7月 7日 12:35”が言ったとおり,
”食べられるぞ
誰に?”
これは随分変えるべきな理由だ思います。

今まだ正式的に使えないのは同意ですけど。

愚禿 :

肯定(というか開き直り)論者が持ち出す、
筋が通らなく下らない肯定論は、大体内容が決まっています。
よって、それを潰す理屈は用意しておいた方がいいと思います。
という訳で、ちょっと自分なりの反論理屈を書いてみます。

・可能と受身の分化
それが合理的だと言うなら、まずその肯定者自身が、
分化出来る全ての単語に適用してから言うべきでしょう。
していないのであれば、
「日常よく使う言葉の間違いに屁理屈をつけて開き直っているだけ」
に過ぎません。

あと、そこまで機能分化が好ましいと言うなら、
可能・受身だけでなく、敬語の分化も考えるべきでしょう。

(でもどうせ、日常で注意に反発してくる程度の
肯定論者のほとんどは、こういった事を考えた事もないはず。
言葉を蔑ろに扱って平気な人間なんて、そんな物です)

・言葉は変化する物
変化にも色々ありますが……進化や害の無い変化ならともかく、
退化・劣化(これは「文法崩壊」という劣化でしょう)を
変化と言って放置するのは、一般的に好ましくない事のはずです。

また、ある変化に拒絶の声を上げて形式を修復しようとする事も、
「逆向」という変化の兆しと言えます。
なので、拒絶・修復論を否定しようとするのは、
「言葉の変化を認めない」事であり、矛盾です。

・単語の読みだって時代で変わっている
と言って変え放題にすれば、そのうち世代間の意思疎通など
出来なくなってきますが?
同じ物を使ってこそ意思疎通が出来る。
それが言葉である以上、安易に変えないに越した事はないです。

何より文法というのは下手に崩されると、
さらなる崩壊を生じかねません。

実際、ら抜き言葉の存在のせいで話者が混乱して、
どう言うのが正しいか分からなくなった結果として、
「れ足す言葉」といったさらに珍奇な派生語が、
二次崩壊的に生まれてしまっています。

既に日本語を使っている人の間でこれでは、
新規日本語学習者はなおさら混乱する事必至。
迷惑な話ですね。

・方言にもら抜き言葉がある
方言という「その地域で成立している言語体系」を、
ら抜き言葉という「体系崩壊現象」と同じカテゴリに
入れる事自体間違っています。

「ら抜き言葉」というのは「標準語における誤用・乱れ」を
限定して指すべき単語でしょう。

・言葉は生き物(「変化する物」のバリエーションでしょうが……)
人間が手なづけている生き物の管理は、人間の責任です。
それを放棄して公共の場で野放しにするのは、
他人への迷惑になります。


とまあこんな感じです。

あとはあまりにもアレなレスへの突っ込みを。
>「雰囲気」ってみんな「ふいんき」とよみますよね?
読みません。
少なくとも自分と仲のいい知り合いは、誰一人。

というか、むしろこんな読みが一般的に使われていると
思っている事自体が情けないですね。
これは今でも、広く世間一般的に「誤読」で、
普通日常で使ったら赤っ恥をかきます。

例外は、ネットの2ちゃんねる周辺限定で、
確信的に・ネタとして使う場合くらいです。
いわばネットスラングのひとつに過ぎません。

JUN :

まさにその通りです。

ただ、今本当にひどいのは公共性の高いCMまで「ら抜き言葉を使っていることではないでしょうか。
というより
http://www.youtube.com/watch?v=E1hGJTjE7M4
を指名しますが…

あれは本当に聞くに堪えない。

CMにもかかわらずチャンネルを変えてやろうかと思いましたよ…

このような放送を聞いて愚かな人たちは増えてしまうのでしょうね。

   :

CMで一番悪影響が大きかったのは、
多分ミニストップのキャッチコピーではないかと思います。

「しゃべれる、たべれる」

勘弁してください。

匿名 :

言葉ってのは進化し続けてきたもの
今の使ってる言葉も何年も昔の人からみれば間違いだらけ
世間に広く定着したらそれが正解です

ブログを見る限り現代語を使われているようですが、
普段は1000年以上前の単語と文法でも使って生活してるんですかね?(笑)

時代についていけず「最近の人は?」なんて言う人は見苦しいだけです

ユキオ :

ここまでコメントされている内容について読んでみますと、成程そうなのかと考えさせられることがあったり、抽象すぎてよく理解できなかったものがあったりで、ここで若者の私がコメントするのは浅はかさを露呈してしまうだけだとは思いますが、今、正直に感じていることだけについて書かせて頂きます。

学術的には正しくなく憶測に過ぎないとは思いますがご容赦下さい。


「ら抜き」について自分はどう使っているのかについて考えてみました。
まあ、文語は置いといて口語についてだけなんですが。

例として先程出てました「食べる」を挙げます。
すると、自分は「食べられる」と「食べれる」では、使い分けしていることに気付きました。

色々な状況があると思うので一概には言えないと思いますが、「食べられる」、「食べれる」はどちらも可能を表す言葉ですが、「食べられる」については敬語として特化している部分があります。

他の敬語として「お食べになる」というのは、今の時代、どうも仰々しい感じがしますし、昔のお殿様には使えても今のお客様に対しては、ちょっと行きすぎかなあといういう気がしちゃいます。

そうなると「食べられる」の方が使い勝手がいいため、敬語としてよく使うようになっています。

次に「食べれる」の方ですが、これは仲間内や親しい中ではよく使います。意味が通り、尚且つ噛みにくくテンポよく使えて便利です。

このように一応使い分けはしています。


自分が勝手に感じていることですが、敬語の程度の差が縮まるにつれて言葉もシフトしていっているのかなという感じがします。

「?られる」が敬語として定着すると、それと差別する普段使いの言葉が必要になってくるのではないか。それが「ら抜き」言葉に当たるののではないかと。(曖昧ですみません)

ただ、今はまだ、全てが「ら抜き」化に向かっているということではないような気はしてます。
それなりの状況によって、使い分けされているような気がしています。

今回仕事で「ら抜き」表現が使われたのは、その方がテンポ良く人に伝えたくて無意識に出た言葉かもしれません。


「ら抜き」言葉だけではありませんが、言葉の変化にはその時代、時代における社会背景が密接に影響しているのではないかとは思います。

若者にありがち。 :

ら抜き言葉に限らず、注意されるほど人を不快にしていることをまず自覚することかな。
因縁とか、いいがかりとかとは全く性質の違うものです。

RERA :

はっきり言えば、標準語は人工の日本語、方言は自然発展した日本語です。
それを否定して、標準語を推奨していること自体が言葉狩りそのものでしょう。

某アナウンサーが日本語を大事にしようと張り切っていましたが、そのこと自体が不自然ですし、ナンセンスですね。
ましてや時代によって言葉遣いが変わっている事実があるのですから、「古い」標準語に固執するのも愚かです。

東京の人も江戸弁という方言がありながら殺したことを反省すべきでしょう。

as :

そもそも文法そのものがおかしいっていう主張自体がそんなおかしいものだろうか?
「○○られる」という言葉で可能性と受身や尊敬語的な意味合いまで含んでしまうあたり、それらの意味が差別化され分けた言い方になるというのは、結構自然なことなんじゃない? と思うけどなぁ。
他の読み間違いやいい間違いや聞き間違いから定着する言葉よりは、より理屈さを感じる気がするけど

ねこ :

ら抜き言葉擁護・推進派の皆さん、長々と必死にコメントなさってますが
ら抜き言葉というのは、単なる<幼児言葉>ですので...。以上です。

うx :

どちらも正しいという考えはないのでしょうか。

なぜ、どちらが正しくてどちらかが間違っているとする必要があるのか、正直言って理解できません。

ら抜きは進化ではありません :

数十年前から、医学雑誌等では、ら抜きも含めた日本語発音の幼児化が指摘されていました。つまり、ねこさんが仰る通り、ら抜きは顎が弱って舌が回らなくなったための退化語です。顎やら舌やらが弱って(というか退化して)、ラ行の連続が言えない・言いづらいから抜いちゃえという類のものです。

受身・敬語と区別をつけるための進化とも言われますが、
自分で捨てるゴミを「捨てれる」、
自分で取る電話を「受けれる」、
までいくと、区別のための進化とはとても考えられません。
一部の言語学者でも進化と捉える人がいますが、「入れれる」等と言われるところまで聞いて出した結論なのか疑問です。
英語に関しては重箱の隅をつつくようにして文法や古来からの用法などを守ろうとするのに、なぜ日本語に関してはこうもぐだぐだになるのかと、いつも不思議です。

文面を拝読する限りでは、擁護・否定の議論をなさっているのではないとは思いますが、できましたら今後もそのご見解を大事にして頂き、顔を合わさなくなった方のことは気にせず、今後もこっそり注意して頂きたいなあと切に願います。

藤拓 :

「実践・日本語の作文技術」(本多勝一著 朝日文庫)P.230

「わが伊那弁の日本語で説明しよう。「見られる」と「見れる」は全く別の言葉であって、・・・両者は厳密に区別されている。つまり「見られる」は受け身であって可能の意味はなく、「見れる」は可能だけであって受け身の意味はない。ところが東京弁・・・の「見られる」は、受け身と可能の双方を意味する」

整理すると、
伊那弁・・・「見られる」(受け身)
      「見れる」(可能)
東京弁・・・「見られる」(受け身・可能)

私は、ら抜き言葉を上司に注意されたことがあるが、全く理解できなかった。上記本を読んで、自分が「見られる」と「見れる」の両方を使用する地方出身者であることが分かった。

日本語の共通語(標準語)が東京弁であるので、私は「見れる」を「見ることができる」に置き換えている。

S :

あくまで、言語の変化と「ら抜き言葉」は別問題で「ら抜き言葉」が許容される理由を求めているようなので述べると、

例えば「ら抜き言葉」が定着した例として「走られる」があります。
昔は「私は100m12秒フラットで走られる」と言っていましたが『ら』が抜けて「走れる」になりました。

他厳密には「ら抜き言葉」ではありませんが「読まれる」などがあります。
これはら抜き言葉ではないように思われるかもしれませんが、母音で考えると読+MA+れる、でMAが抜けて「読める」になりました。


後は細かいので、詳細な具体例は挙げませんが、『方言』という形で「ら抜き言葉」が歴史ある地域も多々あります。

キムタクヤ :

「太郎は人参を食べられた」
って文章を読んで何を想像するかね?
可能と受け身を同じられるを使っていれば誤認・誤読が増える。
片方(可能)がラ抜きにされて区別が容易くなるならそっちを使うほうが合理的ではないか。
元々、文法自体が使われていた言葉を考察して作られたもの、何を標準とするかは作った語学者のエゴでしかないわけだ。他県ではほぼ全員していて東京でも半数以上が使用している言葉なのだから文法のほうを改正するほうが自然な語学の推移ではなかろうか。
古来よりの言葉を残したいのならなぜ古語を使わないのだね?
あんたが使ってる言葉も聖徳太子が聞けば時代の流れで乱れていった変な日本語であろう?

温井 :

自分はいわゆる「ら抜き」は使わないし、どちらかというと学がないタイプだなと感じるが、面接等で差別する行為もまた、それ以上にくだらない。感謝されてもよいというのはあまり共感できない。
正義のもとに行われる戦争の発生と同じメカニズムである。

ら抜きを不快とまで思うのは心が狭い。
理論上は可能動詞の法則を上一段・下一段・カ変に適用したということは日本語のネイティブスピーカーには理解できるはずであるから、使う人がいても不思議はないくらいの思慮はあってよい。

また方言による違いは考慮すべきである。

通りすがり2号 :

まさに「「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ」だな。
開き直るバカばっか。
口語ならまだしも、文章にするとバカ丸出しなんだよ。
おまけにネットスラングを新しい日本語だと思っているバカ。
もう手に負えないね。

ak198 :

>通りすがり2号さん
バカバカ言ってるあなたもバカ丸出しだと思いますよ

NNS :

可能と尊敬を区別するのに合理的だと、なんせ大正時代には始まってた変化らしいですからねぇ。言語学的には、自然な変化と捉えるべきでしょう。
学校やら就活に関しては、当然フォーマルな場や正式な書類では避けるべきでしょうが、その程度の問題であり、目くじら立ててわざわざ注意するほどの事でもないでしょう。

友人との会話で、「俺、今日メッチャしんどくてさー、マジ勘弁して欲しいわ」といった砕けた表現も当然適切であり、何の問題もありませんが、就活の場や学校のテストでそんな口調を使えば当然アウトです。当り前ですが。
結局、その程度の問題でしょう。

なにわ言葉のつどい :

タイトルの
「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ
江戸弁が標準語と言い張ってる様で滑稽です。

サッカー中継でアナウンサーが「タッチラインを割った」と言い
プロ化当初、セルジオ越後が「サイドライン」と訂正しても
今ではNHKでも「タッチライン」と言い、
注意してたセルジオもタッチラインと言う。
世界中から笑われていても、それでイイんです。それが日本。

ら抜き言葉は方言から始まった言葉。
使用して(い)る人数も地方数も多いと言う事。
江戸時代より使われて(い)る言葉。(文献にあり)
食べられると食べれるは別の意。

まだまだ日本には”ざじずぜぞ”を発声出来ない地方があるのです。
冷蔵庫を”れいどうこ”としか発声出来ない人を小バカにしたら差別です。

さすればこの記事の表題を書く人物は差別擁護論者ですか?となる訳です。

なにわ言葉のつどい、公的に活動しております。
是非ご参加下さい。

secter :

>就職やお見合い、進学時の面接で「ら抜き言葉」を
>使ったために、聞く人が悪印象を持ち
>不本意な結果になったとして、擁護派は責任をとれるか?

論者自身が「ら抜き言葉」を使っている罠。


>まあ、ディベートゲームとして、
>そういう擁護の「理論武装」は
>楽しいんだろうけどな。

まあ、あなた自身、このページで自論を振りかざして理論武装して楽しんでますしねwww

anonymous :

ら抜きが正しいかどうか、批判派援護派云々なんてどうでもいいじゃないですか。
不快に感じる人も心が狭すぎですよね。人それぞれでいいんじゃないですか?

通りすがり :

「ら抜き」は、「可能」と「受け身」を
明確に区別する。

言葉というのは、ツールであり、
その方が便利であれば、みんなそちらを使う。
(「全然+肯定」のように)

同じ言葉が、可能なのか、受け身なのか、
それだけでは分からず、文脈を判断しないといけない
よりも
(さらにひどい場合、文脈からも判断できないことが
あるが)
明確に分かれていた方が便利であろう。

「ピーマンが食べられる」など
ピーマンを食べることができる、
ピーマンが誰かに食べられる、
の2種類の意味を含むよりも、
「食べれる」で可能と限定した方が便利である。

言葉など所詮はツールである、
という認識がブログ主にはないようだが、

それ以前に、
「ら抜き」を使う場所というのを、
パブリック、プラベート、どちらなのか、という
前提条件がしっかりと規定されていない。
だから議論が混乱している印象を受ける。

ブログ主は、テーブルマナーの例を出しているように、
パブリックな場で使うのはおかしい、
と主張しているようだが
(不快感を覚えた、などの没論理な私的感情も入ってきているので、
分かりにくいが)
反論のほとんどは、プライベートな場であれば、
問題がない、という話である。

要するに、ブログ主は、プラベートでも、
テーブルマナーを守れ、不愉快である、
といった類の主張をし
(少なくとも、そう受け取られ)
それに対して、
なぜそんな「非合理的」なことをしないといけない、
という反論を招いているようである。

つまりまあ、お互いの前提条件が
すれ違っているのだから、平行線である。

牛丼屋で、茶碗からかっこんで食っている人に対して、
「不愉快だからやめてください」と注意しているようなもので、
それに対する反論は、当然、
「この方が、食いやすいじゃねえか」である。
そして、お前が不愉快がろうが、知ったことか、なのである。
むしろ、牛丼屋では、牛丼の食い方に、ケチを付けてくる方が、
マナー違反といえるだろう。
「ら抜き」の指摘は、これに似ている。

ツールの話に戻れば、
「ら」を入れた方が便利な局面というのが存在せず、
「ら」を抜いた方が便利であることは間違いない。
「ら」を入れるべきという論者は、「不快感」という、
訳のわからない論拠しか持たない
(「貴様」のように、本来の意味と真逆になっていたりする
言葉はいくらでもある。それらをすべて指摘して、
間違っているから直せ、と迫るのであれば、
筋もとおっているが、「ら抜き」反対論者に、そういう
一貫性はない。本人の「違和感」だけが論拠になっている
からである)
抜いた方が便利なら、抜けばいい。
「伝統」だのなんだのを持ち出すのも筋ちがいで、
だったら、古語でブログを書いているのか?という話である。

プラトン・アレクセエヰツチユ・セレダは床の中でぢつとしてゐる。死んでゐるかと思はれる程である。鼻は尖つて、干からびた顔の皮は紙のやうになつて、深く陥つた、周囲(まはり)の輪廓のはつきりしてゐる眼窩(がんくわ)は、上下(うえした)の瞼が合はないので、狭い隙間を露(あらは)してゐる。その隙間から、これが死だと云ふやうに、濁つた、どろんとした、硝子(ガラス)めいた眼球(めだま)が見える。

せめてこのくらいの文体で、ブログを書いてから、
「伝統」うんぬんと書いてください。
日本語が、わずか100年ほどで、どれだけ変わったかは、
明らかでしょう
(100年前には、これが「正しい」書き方ですよ)。
そしてこれは、「その方が便利だから」現在のように変化したのです。

結論
・パブリックな場では、「ら」入りの方が間違いがない。
 現状は「ら」入りを使っておけばいい。
・プライベートな場では、ごたごた言われる筋合いの話ではない。
 「ら抜き」の方が、言葉をツールとして考えたとき、
 便利なことも明らかである。
 これに対して「ら」を入れた方が便利という論は存在しない。
・伝統を持ち出すのは筋違いであり、言葉は変化するものである。
 昔の人に言わせれば、あなたの文章だって、
 充分「伝統を無視している」のだ。

なんとなく :

こう思います。

たとえば法律などは、使い始める前に『こう使いましょう』とガイドライン策定を行ったうえで、『何月何日からはじめます』という形で使い始めます。
この形であれば、利用の前に明確なルールがあるため、『正解』に関してある程度しっかりとしたコンセンサスがあると考えることもできると思います。

言語で言えば、エスペラントやコンピュータ言語などはこの形(=ルール先行型)だと思いますが、この形であれば、『意味』のエンコード&デコードはもとより、表記方法の揺れなどの点で利用先行型よりも、分があると考えることもできると思います。
『正解』が明快であるゆえに、『誤用』を論理的に証明しやすいという側面もあるでしょう。
ところが、ここで話題になっている『日本語』の場合、ルールの策定よりも実際の利用のほうが早かった(=利用先行型)形なのではないかと思っています。

つまり、日本語というものの語法・文法というのは、もう既にみんなが実用として使い始めちゃっているものに対して、後から法則性を見出して、『だいたいこう使ってる人が多いから、これが正解なんじゃなかろうか』と学者先生が後追いで研究して、法則を定義していったものなのではないかと思っているのです。(音楽理論なんかも、理論より音が先ですよね)

そして、その学者先生の中でも、それぞれ主張が違ったりします。
日本には有名な山田・松下・橋本・時枝の四大文法に加えて三上章先生の語法・文法も急速に認められてきておりますが、これら代表的な言語学者の主張にさえ、少なからず排他的な関係が見当たります。
そんな中で『正しい日本語』というものを定義しなくてはならない、と考えていくと、その途方のなさから『日本語にコンセンサスとしての正解というものはない』ということかなあと思えるようになってきました。

さらに、『学者の決めた後追い策定の法則が、市井の民間人によって実際に使われている用法よりも正しい』ということは日本語というものの発生過程からして絶対にありえないこと(理論より実用が先にあったので)かと思いますので、結局のところ、『誰もが、自分にとって正しいと信じる日本語を使っている』ということなんだろうと今では思っております。
主観の数だけ『正しい日本語』が存在する、というような意味合いで、つまり、日本語のエンコードエンジンは、利用者の数だけ存在し、一つとして同じものがない、ということです。

利用ベースの日本語はゆるやかな輪郭を保ちつつ、多くの利用者によって変化を遂げてきたものであって、どの時代のどの利用者が持つエンコードエンジンであっても、すべて正しい日本語であると思います。
よって、『ら抜き言葉』はそれを用いる人にとっては正しいが、『ら抜き言葉は正しくない』と思う人にとっては正しくない。
長年の利用に伴って、淘汰されていく語法・用法もあれば、マジョリティを得ていく語法・用法もありますが、それと客観的な正当性とは無関係だとも思います。
世界でただ一人しか用いない用法・語法があったとしても、それを『誤りである』と断じることができるほど『正しい日本語』というもののコンセンサスは明確ではないと思います。

ちなみに。。。
『退化』は進化の一側面であり、『退化も進化である』という定義で用いられることが多いように思います。

コメントをどうぞ






RSS2.0