研究者と国民の関係と責任の所在

   2015/02/14

高齢出産は生む者の責任か
研究者と国民の関係と責任の所在について書きます。前回、野田聖子さんの出産問題で私は「生きているときの経験は生まれたからこそできる。どんなに不幸でも生まれたことと存在しないことは比較のしようがない」と書きました。それについて続編を書かざるを得なくなりました。

というのは、その結論の一面だけをとらえた人がいて

インドや中国では、人口のコントロールをしているから、
産まない人たちもいる。

だから、私の主張は「普遍的ではない」という反論が来たのです。

野田聖子さんの「高齢出産」と「ニセ科学」問題

読んでいただいたから意見を書いていただたわけで
その点は感謝していますが
ちょっとずれているコメントなんで
ここで取り上げさせていただきます。

この方は、子供ができたら産むべきか、産まざるべきかと
いう漠然とした論争を構えて
私が、産むという結論が「普遍的」だと言っているとし
自分に都合がいい根拠(インドや中国)をもってきているのですが

私は、産むという結論が「普遍的」だと言っているのではありません。

また、産まれたことと存在しないことの「違い」はどんな出産であろうと
「普遍的」だと述べたのであり
時も場合も考慮しない話を書いた事実はありません。

産まれたことと存在しないことの「違い」……
つまり、生を受けることに対する意味や価値を述べたのです。

それも、「生かされている」といったたぐいの主観的観念論ではなく、
論理的で合理的な、あったり前の話しかしていません。

ああ、オレは不幸だなあ
ああ、○○屋の××丼はまずいなあ

そういうことは生まれて経験したからわかることですよね。
生まれなければ、不幸も、まずいものも経験しません
そういう話を書いたのです。

前回の該当部分をおさらいしますと、
エゴと感じるのも、吉村泰典医師が医師になり
真輝さんが生まれたからこそできる判断であり
生まれてきて幸せかどうかを判断する権利は
医師ではなく真輝さん自身にあるという話を書きました。
それだけの話です。

インドも中国も関係ありません。

いずれにしても、誰がいつどんなときでも
産むべきだと言っているわけではありません。

そんなことをいったら、初潮があって行為に興味を持った
中学生にも「新しい命の誕生は素晴らしい、産みなさい」
という理屈になってしまうでしょう。

それに、人口をコントロールをしているから
産まないことが正解な場合もある、
という意見は、社会的な事情を考えたものであり、
しかも、人口が多い特定の国にのみあてはまる限定的な事情です。

ですから、あんたのは普遍的な考え方ではない、といわれても
「普遍的でないというお言葉なら、そっくりそのままお返しします」
と申し上げるしかありません。

次に、吉村泰典医師が「エゴ」といったのは
医学界の責任ある立場としては踏み込み過ぎたかもしれないが

個人としての意見なら「言論の自由」でいいのではないか、
という指摘もありました。

これは、医学者や科学者、もしくはそうした人たちの
代弁者的仕事をしている科学ライターにありがちな意見なんですが、
私はこういう意見とは厳しく対立します。

医学者、または科学者がその肩書きを背負って
メディアで発言するときは
科学的、合理的、客観的な立場の発言に徹すべきです。

別に、その人たちは特権階級でもなんでもありません。

私たち国民は、この人たちに科学・医学を預けているのです。
それと引き替えに、この人たちは人々から畏敬を受けて
好き勝手なことをして暮らせるのです。

公務員が、社会的活動を制限されているように
この人たちも、自分の肩書きに忠実にふるまうべきです。

科学的(医学的)な命題において
科学的(医学的)な発言をしない科学者(医学者)に
存在価値はない!ということです。

あと、私は「十分承知している」と書いているはずですが
野田聖子さんは他人の卵を使ったから
無理をした出産なので、たんなる高齢出産とは違い
倫理的に問題があるという意見もありました。

そのご意見自体に見識を感じることはできます。

ただし、前回も書いたように、
妊娠の機会を年齢的にも広げることに
ほかでもない医学者自身が貢献したのではないですか。

医学者が研究し、医師がそのような技術をつかわなければ
野田聖子さんははじめから出産も妊娠もしなかったのです。

医学者により、野田さんに出産の道が開けた。
なのに、産んだら「エゴ」といわれちゃ、
産む人の立場はないでしょう、と書いたのです。

法整備もないままそれを採り入れた医療側の「エゴ」は問われず
さあ、出産の可能性が広がりましたよ、という話に乗って
それを利用した側だけが「エゴ」といわれる。

これはやはりへんです。

野田聖子さんも対談の中でそれとなくおっしゃっていますが
ハシゴをはずされたような気分でしょう。

吉村泰典医師は、医学界ではそうした倫理を啓蒙し
自ら法整備への提案を行う肩書きをもちます。

にもかかわらず野田さんを「エゴ」と責め立てた。
それはないだろう、と。
お前の側にこそ責任があるのだろうという話です。

卵提供による高齢出産が好ましくないのなら

一般の人ならともかく、医学の側にいる方なら
「私たちの法整備や国民の倫理形成への力が及ばないことにも責任の一端がある」と
まずはコウベを垂れるのが筋だろうと。

私が吉村泰典医師の立場と考えをもっていたら、まずそれをします。

それを行った上で、「一医師としてあなたの無理をした妊娠出産には
申し上げたいことがある」と
意見を述べるべきと思います。

研究をする者、それを採用する者、法律で定める者、利用する者(国民一般)、
その関係と責任と合意(倫理)形成のあり方を明らかにすることが
この問題では求められているのではないでしょうか。

それをせず、野田聖子さんという個別の「強引」な出産を餌食にして
高齢出産をコバカにするだけで話を完了して
実りある結論にたどり着けたといえるのでしょうか
ということを私はいいたかったわけです。

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