『なぜ疑似科学を信じるのか』(菊池聡著)思考について考える

   2015/02/10

なぜ疑似科学を信じるのか

『なぜ疑似科学を信じるのか~思い込みが生み出すニセの科学』(菊池聡氏著)という書籍が話題になっている。著者は心理学者の菊池聡氏(信州大学人文学部准教授)。ご本人から献本していただいたことをここにご報告し、あわせて菊池聡氏にお礼申し上げます。ありがとうございました。

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ただ、菊池聡氏に全く責任はないが、戸惑ったことも事実である。どう戸惑ったのか。

それは後回しにして、まずはレビューから。

「非合理」の中の合理性

「なぜ疑似科学を信じるのか」では、疑似科学の特徴や、疑似科学はどういうメカニズムで発生するのか、さらに人間の認知の仕組みなどを解説。

疑似科学の具体的な例として、血液型性格判断、宏観異常現象(地震の前兆を動物が知っているという説)などをとりあげている。

これまでも物理学者や心理学者などが、こうした学問的解明の本を何冊も上梓しているが、正直言ってそのジャンルの書籍は売れない。

知られざる秘儀が存在した!という本なら、与太話でも売れるが、それは科学的根拠がない、という否定本をまじめに書いても売れないから困ったものである。

書籍の質や意義と商業的成果がリンクしないのだ。

取材費や調査研究費と時間をかけて書いてもビジネスとしては全く見合わないので、問題意識があっても手を出しにくい分野である。

にもかかわらず、こうした本が出るのは、科学的思考、批判的思考が、怪しげな言説に否定されてはならない、人間の理性を守ろうという、出版社や著者の良識と良心のあらわれであろう。

もっとも、大学の先生の場合、学生に買わせることを当て込んでいるのだろうが。

結論を書くと、上から目線のような書き方になってしまうが、筆者は『なぜ疑似科学を信じるのか~思い込みが生み出すニセの科学』を評価している。

理由は、理系学者の書く他の疑似科学批判本と、根本的に違うところがあるからだ。

どこが違うか。

こうした疑似科学批判本は、たとえば

血液型と性格に相関関係などない、
超能力など力学的にありえない、
動物が地震を察知するという科学的な証拠は見つかっていない

など、科学の答えを枚挙し、言説者を批判する。

要するに、疑似科学のタネ明かしをするだけである。

しかし、菊池聡氏は、そうではない。

疑似科学の中に存在する合理性から、人間の思考や価値判断の全体像を、科学的な評価をすべてとせず、リアルに見つめている。

ハイライト部分を引用しよう。

ただ、「合理的」という概念をクリティカル=多面的にとらえてみると、疑似科学には意外なことに合理的な機能があることに気がつく。
 たとえば、疑似科学的な補完代替医療であったとしても、熟慮したうえでその治療を選択することを非合理的と決めつけることはできないだろう。たとえば現状では有効な治療法が見いだせていない病気の場合、もしくは外科的な治療で生活の質が低下することを嫌った人が、たとえ根拠が薄弱であろうと非侵襲的な医療を選択するという考え方はある。補完代替医療に十分なエビデンスがないことは認識したうえで、その利用という選択肢を選んでいるケースが一定数はあると推測されるが、それは果たして非合理的な態度なのか。
 もっと一般化していえば、科学的規準に照らした合理性と、個人の目的にもとづく選択の合理性は、おおいに関係があるとしても、分けて考えたほうがいいのではないか、ということである。
 合理性とは、読んで字のごとく、「理」 に合うことである。その理とは、もっともな道理、筋道ということであり、私たちが判断する時の規準となる。
 おそらくは私たちが手にできる、最も客観性と公共性を持つ理のひとつは、科学と論理の規準であることは間違いないだろう。その規準でいえば、たとえば「おまじないをすると、恋が成就する」という考えは、明らかに非合理だ。そこに科学的な根拠はない。しかし、「おまじない」によって、心が落ちついたり、告白の勇気がでるといった作用が期待できるならば、告白の前に「おまじない」をするという行動には筋の通った理由があり、そこには、個人的・適応的な意味での合理性があるといえる。

疑似科学の論争というと、えてして「否定派」は、エビデンスのない治療を否定すればいい、占いやおまじないを否定すればいいと単純に考えているが、真の「合理的思考」とは、そんなものではないということだ。

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それは、科学的「正しさ」を物差しとする物理学者ではなく、人間の心理全体を学問領域とする心理学者だからこそ書ける懐の深さかもしれない。

菊池聡氏は同書で、「科学」の問題と「価値」の問題は「文脈が違う」ということも述べられている。

要するに、「科学」の文脈に「価値」の文脈で襲い掛かることがあってはならないし、当然その逆も然り、ということなのだ。

自称疑似科学「否定派」は、その後者ができていないことがある、と私はこのメルマガでずっと指摘してきた。

ただ、私の持論は、菊池聡氏よりさらに踏み込んでいる。

「科学」と「価値」は、別の「文脈」ではあるけれども、全く別方向を走っているわけではない、ということである。

ともに同じ方向を互いに伴走しあいながら進む関係にあるのだ。

つまり、「科学」の進歩は、「価値」の自由な議論や表現あってこそ可能になるのだ、ということである。

いずれにしても、人間の思考判断というのは、必ずしも科学や法律や道徳の通りに結論を出せない場合がある。

そこにこそ、人間というものの奥深さを見ることができ、科学的に正しくない、だからけしからん、だけでは実は何も解決しない。

だから、巷間、手を変え品を変え、流行するいろいろな疑似科学について、対処療法的に科学的なタネ明かしで完結するだけでなく、なぜ人はその疑似科学に惹かれるのか、ということを心理学、文学、社会学(マスコミ論)、宗教、芸術、教員、ジャーナリストなど、様々な分野の研究者や実務者たちが協働して考えて欲しいと思うのだ。

で、何が戸惑ったか、という話

私はすくなくともこの6年間、非合理現象に対する一部理系学者の批判の仕方やスタンスに疑問を持ち、ときには実名で批判をしてきた。

それに対して、一部の先生らから的外れな批判をされ、その信者といっていい有象無象にも誹謗中傷された。

だから、今回の献本についてもどういう意図で送られたのだろうかと訝ったのだ。

といっても、別に菊池聡氏と何かあったわけではない。

というより、目に見える形で「何かあった」のは天羽優子さんとその信者だけなのだが(笑)

天羽優子さん信者がうるさいので真相をぶちまけます

ただ、影で何を言い合ってるかわかったものではない、という疑いも私は持っている。

だから、今回も、お前の主張していることはわかる、という肯定的な思いがこめられているのか、それとも、お前の言ってることなど、俺はとっくにわかっているんだよ、本に書いてあるだろ、読んでみろよ、というメッセージなのか。

それとも、単に私がジャパンスケプティクスという疑似科学批判を標榜する団体で副会長だったからなのか、真意をはかりかねている。

これまでいろいろな人からうんざりするような中傷を受けすぎたせいか、献本していただきながら、その厚意を単純に喜ぶことができないのだ。

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