大槻義彦氏、東日本大震災コメントの問題点

   2016/02/22

okottazo
大槻義彦氏、震災についてのコメントの問題点である。東日本大震災の原発トラブルで取り沙汰されている放射線の安全性について、国民は御用学者の「大丈夫」論に懐疑的になっている。そこで登場したのが、疑似科学批判タレントの大槻義彦氏だ。しかし、氏の論調はこれまでにも、科学者としてあってはならない粗雑さや認識違いが真面目な批判者から指摘されており、今回のコメントにもそうした「悪癖」がかいま見える。今回はオカルトショーとは違うリアルな震災なのに、そんなスタンスでいいのか!

スポンサーリンク↓

国民に「無知」の責任を押し付け政府や東電の責任を免罪

大槻義彦氏の震災についてのコメントが掲載されているのは、「東京スポーツ」(3月30日付)。

大槻義彦氏のコメントはテーマごとにコメントがまとめられている。順番に見ていくと、最初は「後手に回った反応」。原発問題は外部電源を引いたことが遅れたと指摘。これはまあいいだろう。

次が「原発行政の問題点」。要するに原発を国有化していないことがおかしいという意見だ。いずれにしてもそれは機構上の問題であり、今回のトラブルの直接の原因にもってくることではないだろう。だいたい、国有化すればなおさら隠蔽の闇が深くなる、という意見だってある。少なくとも原子力物理学者を名乗るなら、もっと直接的な(物理的な)因果関係を語るべきである。たぶん、詳しいことは何も知らないのだろう。

筆者は一部にあるような「政府・東電の批判を手控えろ」論者ではないので、今この時も批判も議論もして構わないと思う。

が、国有化にすべきかとか、原発をどうするかといったテーマなら、収束に先んじて現在取り沙汰す必要はないと思う。

三つ目が「原発の本当の状態」。今回は「チェルノブイリとは違う」という話で、この限りではこれもいいだろう。ただ、「多くの方が勘違いされている」と言い草は、国民をコバカにしすぎではないか。

科学者は知っていて、国民は無知蒙昧であるという動かぬ決めつけと上から目線の本音が、こういうところに出るのだ。

「多くの」がどれぐらいを想定しているか分からないが、「国民」といっても多様であり、漠然とその「多くの」をもって国民を一括りにした指摘は合理性に欠ける。

すでに原子力に詳しい多くの識者が「チェルノブイリとは違う」ことは語っている。一号機のトラブルの頃ならいざ知らず、少なくとも現時点に至って一定の国民は、「チェルノブイリ並みの爆発か?」という心配ではなく、チェルノブイリよりも事態収拾に長く掛かり、さらに先が見えないという現実に対する不安と疲弊を感じているのだ。

もとより、国民にとって、どこそこの事故より上か下か、ということはどうでもいい。現実の被災そのものの問題なのである。

その中には、たんに人間だけでなく、環境問題として放射線をどう見るか、ということも含まれている。

たしかに、人間は生物の中ではもっとも「放射線に強い」かもしれないが、動植物はどうなのか。魚はどうなのか。同じ人間でも乳幼児はどうなのか。大槻義彦氏の「大丈夫」論はそこが全く抜け落ちている。

かりに人間が無傷だったとして、環境が傷つくことで、いずれは人間にしわ寄せが来る。自然のサイクルがちょっとしたほころびから崩れてしまうかもしれない。専門家ではなくても、国民は自然の非線形を直観的にわかっている。

そんなことも含めて、不満や不安や疲弊がある。にもかかわらず、情報が不十分な隠蔽体質に対する不満と諦めが生じているのである。

我々日本国民は、今、福島第一で起こっている事の全てを知る権利がある。

その上で、安全かどうかの議論をしたいのにできないのである。

その国民の置かれている立場を理解しようとせず、「国民」の無知を嘆く専門バカの“裸の王様的上から目線”は大変残念である。

次が、読んでいて一番気になった「放射線量」についてである。

大槻義彦氏は、マスコミがレントゲンやCTスキャンと被曝の比較をすることを批判している。

ここまではいい。問題はその先だ。

レントゲンやCTスキャンと比較するなら、がんの放射線治療と比較しろと言っている。

そういう問題ではないだろう。

どうやら大槻義彦氏は、医療被曝と今回の被曝を比較すること自体が適当ではない、という認識ではないようだ。

きょう、関西テレビの「スーパーニュース アンカー」に出演した放射線防護学の安斎育郎氏は、私たちは日常放射線を浴びているし、医療被曝は「がんを見つける」というメリットがあるように、自然被曝や医療被曝には、必然性や必要性がある。

しかし、今回の被曝はそうではないから(つまり質が違うから)、数字だけを比較するために同列に置くことはおかしい。

参考とするのはいいが、「よりまし」のようなアナウンスはすべきではないといっている。

考えても見て欲しい。大槻義彦氏の話に、今現在、がんの放射線治療を行う人々がどう思うか。

ただでさえ、副作用に苦しみ、二次がんの不安を抱えながら治療しているのだ。今回の被曝を「ずっとまし」とするために比較をされるのは、決して愉快なことではないだろう。

ことほどさように、大槻義彦氏の誤りの根源には、「物質的原理」と「精神的原理」の連関をきちんと見ずに切り離し、たんに前者の数量的比較だけで答えを出す、デカルト以来の近代合理主義の最大の欠陥を指摘することができる。

時代遅れの古典的科学者に見られる思考である。

もう一度繰り返す。レントゲンだろうが放射線治療だろうが同じこと。

医療被曝との比較自体が不適当なのである。

次の「農作物への影響」もカチンと来た。

農産物廃棄に反対し、「全部うちに持ってきて欲しい。洗って喜んで食べさせていただく。怖がる必要などない。菅首相もO-157のカイワレと同じく食べるべきだ」とコメントしている。

これを聞いた農家の人は喜ぶだろうか。筆者が農家なら喜ばない。なぜなら、その意図に善意があろうが、全部食べられるはずなどなく、つまり最初からウケ狙いのネタをしゃべっているからである。

農産物が安全というなら、客観的根拠のもとにそれだけを言えばいい。

パフォーマンスを批判されている菅総理に新たなパフォーマンスを提案する必要があるのか。国難といわれる今回の被害はそんなネタを言えるほど暢気な問題としか捉えられないのか。

農家にとっては死活問題なのである。その無責任さ、軽率さに腹が立つ。

最後の「政府の隠蔽疑惑」では、政府に隠蔽はないと言い切り、今回の地震をレベル6といわれる巷間の意見を否定し、レベル4でいいと言う。

そしてまたもや、「放射能の影響という点では、我々科学者と一般の人々の間にかなりの温度差がある」と国民の無知を居丈高に叱りとばしている。

大槻義彦氏は、さかしらに論評している割には、この件できちんとニュースを見ていないようだ。

政府が情報の公開に積極的でかつ適切であったかどうかは、これまての経過を整理すれば明らかだろう。

スポンサーリンク↓

国民にとって、“事故のレベルの数字”は別にどうでもいい。6ではなく4であったとしても、だからどうだというのか。国民が恐れ、疲弊しているのはそんな数字ではなく被災の現実なのである。

元チェルノブイリ原発事故の汚染除去責任者ユーリ・アンドレエフ氏は、「福島の事故は日本がいう5ではなく、最初から6であることは明らかだ。今は6と7の間と判断している」と述べ立てる。

いずれこの件は学者の間で議論され何らかの決着が付くだろうが、「4」でなかったら、大槻義彦氏は責任をとって一切のメディアから姿を消して欲しい。

そして、大槻義彦氏が疑うことのない「国民の無知」だが、確かに、一部国民の過剰な対応には科学的根拠がなかったり、科学でわかっていることと両立しなかったりすることもあるだろう。

だが、「無知」に人には、そもそも疑似科学を創造する「知」はない。

もとより、不必然な被曝は避けたいという気持ちが国民、とりわけ小さい子どもを抱えた親が持つのは当然のことで、これは無知でも疑似科学でもない。

つまり、国民にそのような反応や解釈をさせた「真犯人」こそが批判すべき対象ではないのだろうか。

繰り返すが、地震のレベルなるものは、メディアが専門家と称するコメンテーターに勝手に言わせているだけのことで、国民はその数字それ自体に重きは置いていない。

数字を騒いで大事故にしているのは国民ではなくマスコミや専門家である。

放射線の数値が専門家から見て危険度がどうであろうが、乳児への水道水摂取を控えるよう呼びかけがあったり、現地の人々は避難を指示されてたりしている「普通ではない」現実に困惑しているのだ。

国民はそうした情報に振り回されている側である。それらよる不安や疲弊が問題なのである。

大槻義彦氏のように「数値は問題ない、心配する国民は無知だ」という言い草は事態を逆さまに描いている。

一部国民の食糧や雑貨の買い占めは愚かな行為であり、筆者も腹が立っている。

しかし、それは今回の風評固有の問題ではない。

74年のオイルショックや。93年の米不足のときだって同じようなことは起こった。すなわち「原子力に対する無知」によるものとはいえない。

そう考えていくと、たしかに「温度差」なるものはあるかもしれない。

ただし、それは大槻義彦氏の意味するものとは少し違う。

現場にも行かないどころか、タレントとして稼いだ金で、大橋巨泉氏のように年のうち半分を外国で優雅に暮らして、何事にも傍観者だ。今回だって原発の最前線で作業しているわけでもなく、自分は避難の必要がない。

だから、自分の専門の識見と価値観でしかモノを語れない。

被災現場や、日々刻々と変わる国民感情をきちんと理解しようとしない、理解できない大槻義彦氏。筆者が感じるのは大槻義彦氏と現実との「温度差」である。

菅直人総理に負けず劣らずパフォーマンスがお好きなようだから、大槻義彦氏も被災現場に行くといい。

そうすれば、そんな「温度差」がいかにピンボケな意見であるかをしることができるだろう。

大槻義彦氏は結論で、その温度差は「これは被爆国であり、数々の公害を経験してきたことから、政府や科学者に対して不信感があるからかもしれない」としている。

これもまた、いつものことだが大槻義彦氏らしい。

各論からいきなりもっともらしい総論をひっつけてリベラルな体裁を作る「聞き書き」論評である。

大槻義彦氏のいうことも背景にはあるのかもしれないが、少なくとも現在の国民の心境を決定づける直接のきっかけである客観的な出来事は、戦後政治史を振り返って嘆いたり心配したりしているような大上段なもの以前にある。

それをきちんと見なければ、今回のトラブルを正しく捉えることにはならない。

たとえば、菅総理がパフォーマンスで初動が遅れたとか、ポストを乱立して法案が全く通らないから政治が事態の解決に動いていないとか、東京電力が隠し事ばかりしているとか、保安院が税金泥棒っぽいとか、そうしたていたらくに腹を立て、不信感を抱いているのである。

大槻義彦氏のことさら大きくまとめようとする結論は、そこにいかなる意図があろうが、そうした政府や東電の責任を免罪してしまう憾みを否定できない。

つまり大槻義彦氏は、テレビで語るあからさまな御用学者ではなくとも、国民蔑視といつものトンデモ文脈で彼らを庇っている、御用学者別働隊の役割しか果たしていないのである。

筆者は、この大槻義彦氏が役員をつとめる、ジャパンスケプティクス(JapanSkeptics)という疑似科学批判をたてまえとするサークルで、大槻義彦氏の後任の副会長だったことがある。

その頃、会議で、ある長老委員は、大槻義彦氏と、亡くなった志水一夫というオカルトマニアの諍いについて、「大槻義彦氏が『彼は物理学者でないから物理学者に嫉妬して言いがかりをつけている』と言っている」と毎回のように話していた(当時の議事録は筆者の手元にあるからいつでも確認も暴露もできる)

その手法やキャラクターに毀誉褒貶はあったが、志水一夫さんは、少なくとも大槻義彦氏の「聞き書き」による粗雑な「批判」の誤りを指摘していた。

筆者は、あまりにも馬鹿馬鹿しい言い草だったので聞き流していたが、大槻義彦氏のこうしたピンボケを聞く限り、長老はウソをついていたわけではなく、それは本当だったのかと思う。

つまり、疑似科学批判にしろ今回の原発問題にしろ、科学者として物事の真相に迫るというよりも、世間知らずな専門バカが、物理学帝国主義というフィルターで覗いた世界観を自惚れて一方的に語っているだけなのである。

はっきりいって、こういうトンデモは誤情報でしかなく迷惑である。

大槻義彦氏ら一部物理学者と筆者とは、次の点において根本的に考えが異なる。

疑似科学は、国民がつくるものではない。そこには製造者や喧伝者がいる。

製造者は政府や専門家であり、喧伝者はマスコミである。

考えても見たらいい、繰り返すが「無知」の人に疑似科学を作る「知」があると思うか?

大槻義彦氏の認識はそうではない。少なくとも製造者や喧伝者の責任を明らかにし、その戒めを行うことには不熱心である。

疑似科学批判と一口にいっても、その基本認識が、たとえば安斎育郎氏らと大槻義彦氏ら過去の古典的学者では180度違うということは、良い機会だから覚えておくと良いだろう。

筆者は、疑似科学の広まる基本的な認識が違う御用学者に、真相に迫る疑似科学批判は無理だろうと思っている。

残念ながら、一部物理学者の疑似科学批判の限界や弊害を改めて考えさせられたコメントである。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

この記事へのコメントはこちら

メールアドレスは公開されませんのでご安心ください。
また、* が付いている欄は必須項目となりますので、必ずご記入をお願いします。

内容に問題なければ、下記の「コメント送信」ボタンを押してください。